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【上杉征伐と小山評定】
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伏見城包囲の一報を聞いたのが小山だった
次々に西軍メンバーを整えた三成は早速行動に移します。
慶長五年(1600年)7月18日、家康が上方の留守居に残していた鳥居元忠の伏見城(現・京都府)を攻撃したのです。
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もともと三成たち西軍の動きは、家康のもとへ続々と連絡が届けられておりましたが、ついに伏見城を囲まれたことが家康に知らされたのが7月24日。
このとき徳川軍は会津の手前である小山まで来ており、
コトここに至って家康は腹をくくります。
上杉ではなく三成と戦うべきか――。
しかし、今、徳川に従っている豊臣系武将たちも、いざとなったら西軍になびいてしまうかもしれない。
そこで開かれたのが【小山評定】だったんですね。
小山評定
会議に参加した豊臣系武将とは、前述の通り上杉征伐軍に参加した武将たちで、もう一度確認しておきますと……。
浅野幸長
福島正則
田中吉政
池田輝政
堀尾忠氏
山内一豊
中村一忠
黒田長政
加藤嘉明
藤堂高虎
生駒一正
蜂須賀至鎮
彼らです。
このとき豊臣恩顧の中でも中心的存在である福島正則が率先して「家康に味方して三成を倒す!」と言ったことから、東軍参加への流れが決まったと言います。
すると山内一豊もこう続きました。
「(上方へ向かう途中の)我が掛川城を使ってください」
掛川城とは、東海道の途中、遠江国佐野郡掛川(現・静岡県掛川市)にある一豊の居城です。
なにげに大事な申し出でした。
というのも徳川軍が、三成らのいる上方へ進軍するためためには、東海道や中山道を通らねばなりません。
その途中、もしも西軍の城主がいて徳川と対峙したら、家康としても城を陥落させねばならず、なかなか前に進めません。三成の勢力が拡大してしまうおそれがあります。
しかし、一豊が申し出たことにより他の城主も続き、結果、東海道をスンナリ進むことができたのです。
これが重要だったのは、中山道を見ればよりご理解いただけるでしょう。
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この一戦のドタバタから、秀忠が時に無能扱いされたりします。
しかし実際は、徳川軍の主力で中山道を制圧する(真田を倒す)ために進軍していた――そんな見方が最近は有力視されているようです。
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ともかく豊臣系武将の意思確認をできた【小山評定】は家康の思惑通りに進んだと言えるでしょう。
福島や池田らが岐阜城に攻めかかり
上杉征伐を予定していたところで三成の挙兵。
そこから小山評定を経て進路を変更――。
そう決まった徳川軍は、前述の通り、二手に分かれて進むことにしました。
◆中山道部隊
→徳川系武将の主力
◆東海道部隊
→家康旗本と豊臣系武将
そして結果的に【関ヶ原の戦い】に発展するのですが、実は、最初から「関ヶ原で戦おう!」だなんて決まっちゃいません。
家康もいったんは江戸に戻って様子見します。
そもそも小山評定で徳川に従った豊臣系武将たちは、本気で西軍と戦う気があるのか?
いざとなったら裏切るのではないか?
と、確証が持てません。
そこで福島正則や池田輝政を煽って、西軍の織田秀信(三法師)と戦わせたのが【岐阜城の戦い】になります。
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