明智光秀の功績と言えば?
悪い意味で【本能寺の変】ばかりが注目されがちですが、もちろんそれだけではありません。
足利義昭の命を救った【本圀寺の変】や、近江坂本の領地を貰うキッカケとなった【比叡山焼き討ち】。
あるいは本願寺・一向一揆との対決や、徳川家康の饗応など、ありとあらゆる場面で織田信長に重宝されております。
そんな光秀にとって、最も華々しい活躍と言えば
【黒井城の戦い】
が筆頭候補に挙げられるでしょう。
京都に程近い重要な地・丹波国――。
このエリアを支配するために行われた黒井城の戦いとは、一体いかなるものだったのか?
・第一次黒井城の戦い
・第二次黒井城の戦い
を併せて見ていきましょう。

明智光秀/wikipediaより引用
黒井城の戦国大名・赤井氏
【黒井城の戦い】とは何ぞや?
その説明を始めるには、ご理解していただきたい前提があります。
「織田信長の上洛と将軍就任」です。
永禄11年(1568年)に織田信長は、足利義昭を擁して京都を目指しました。
その際、彼らの上洛を妨害した六角氏や三好三人衆は実力行使で駆逐。大河ドラマ『麒麟がくる』に登場している三淵藤英(細川藤孝の兄)も同合戦での活躍が伝わります。
畿内を平定すると、光秀は義昭を室町幕府15代将軍に就任させ、信長も京都および畿内の支配者にのし上がります。
そこで畿内の勢力は、次第にこんな選択を問われることになりました。
◆信長に従うか?
Yes ←?
or
No ←?
丹波(現在の京都府付近)「黒井城」の戦国大名である赤井氏は、ひとまず信長への恭順を表明しました。
赤井氏は、当主が赤井忠家。
実質的に取り仕切っていたのが赤井直正です。
赤井直正は、自らのことを【悪右衛門尉】と称するような変わり者の猛将で、現代の知名度は低いながら、戦国時代には名の知れた武将だったとされます。

赤井直正イメージ(絵・中川英明)
また、赤井氏が織田家の傘下に収まると、同じく丹波の有力者だった波多野氏(波多野秀治)も下り、他の多くの丹波衆もそれに続きました。
日の出の勢いの織田家、そして権威を有する将軍家。
両者についていけば間違いないであろう。
しかし、そんな目論見は徐々に狂い始めるのです。
信長包囲網を画策する義昭にキレ
政権トップとして日本を治めたい義昭。
「天下布武」のために将軍を利用していた信長。

織田信長/wikipediaより引用
両者の関係は次第に悪化していきました。
表面上こそ友好的に振舞っていながら、上洛の翌年・永禄12年(1569年)以降になると、義昭が信長打倒を目論んで諸国の大名に連絡を取るようになっていきます。
元亀2年(1571年)には「信長を討伐してほしい!」と依頼を出すほどまでに対立が表面化し、義昭の憎悪はかなりのものが見受けられました。
もちろん信長も将軍の敵意は察知しておりましたが、権威を有する将軍を直接非難することは避け、我慢を重ねていたとされます。
しかし、それにも限界がありました。
執拗に敵対行動を重ねる義昭に対し、「もう我慢ならぬ!」とばかりに元亀3年(1572年)、十七カ条にも及ぶ意見書を送り付けるのです。
それでも将軍家の野望を抑えられない義昭。
浅井・朝倉氏や松永久秀、さらには武田信玄などとも協調して反信長体制を進め、【信長包囲網】が形成されます。
包囲網を敷くだけでなく、義昭は、元亀4年(1573年)に自ら挙兵を果たします。

足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)/wikipediaより引用
しかし、これは完全に勇み足でした。
絶妙のタイミングで武田信玄が死してしまったのです。
振り上げた拳を降ろすこともできず、槇島城に籠もる足利義昭。
織田の大軍に包囲されると呆気なく降伏し、京都から追放されますが(槇島城の戦い・この時点で室町幕府は実質滅亡)、織田家にとって厄介だったのは京都に程近い丹波の赤井氏も反旗を翻したことでした。
もともと赤井氏は「将軍義昭」を擁する信長に忠誠を誓っていたのであり、それを失ったいま織田家に従う理由はありません。
本音を言えば、これ以前の元亀2年(1571年)に、但馬(現在の兵庫県付近)の山名祐豊(山名韶煕)と抗争を繰り広げたところ、信長が山名助けを求めたことに不満を持ち続けていたのでしょう。
一大勢力となっていた信長に反旗を翻すのは、さすがに迷いもあったようです。
が、都を追われた義昭からの嘆願や武田氏との密通を経て、反信長へ傾いていくのでした。
第一次黒井城の戦い
天正3年(1575年)、織田信長は赤井氏が君臨する丹波の制圧戦に乗り出すことにしました。
司令官は、当時の織田家出世頭とも言える明智光秀。
名目上は「赤井氏の征伐」ではなく、あくまで「信長に盾突く守護代・内藤氏と、国人・宇津氏を撃破する」というものです。
いったい何のために?
というのも、当時の赤井氏は「反信長を志向してはいたものの、表立っては反旗を翻したわけじゃない」ため、彼らを征伐できる大義名分がありませんでした。
そこで、かねてより反抗的であった丹波勢力の討伐として軍を進め、そこから赤井氏を攻めようと考えたようです。
光秀はまず、丹波で協力的だった波多野氏の後ろ盾を得ました。
同時に、織田家に忠誠を誓っていた丹波の豪族や国衆らを与力として侵入し、あっという間に制圧してしまいます。もともと内藤や宇津といった勢力はそこまでの強さはありません。
かくして光秀が、本命・赤井氏への攻撃に転じると、彼らは黒井城へと立てこもりました。
赤井軍には「悪右衛門尉」とか「丹波の赤鬼」とも呼ばれた猛将・赤井直正が健在でしたが、光秀の兵糧攻めによってジリジリと追い込まれていきます。
光秀方としては、丹波国衆のほとんどが自分たちに味方していたということもあり、かなりの楽観ムードが漂っていたようです。
実際、丹波の国人である八木豊信は「まっ、来年の春までには落城するでしょ」と戦況を評するほどでした。
しかし……。
楽観ムードを一変させる大事件が翌天正4年(1576年)の年明け早々に起こります。
これまで光秀に付き従っていた波多野氏が突如織田家を裏切り、光秀軍は赤井・波多野連合軍の前に敗れ去ってしまうのです。

波多野秀治/wikipediaより引用
光秀は撤退を余儀なくされ、同時に信長も短期決戦による丹波平定を諦めることになりました。
なぜ波多野氏が光秀を裏切ったのか?
という点についての詳細は不明です。
伝承のレベルでは「猛将直正が波多野氏を呼び込む軍略だった」とか、「開戦前から内応の密約が結ばれていた」など諸説あり、いずれも明確な根拠は示されておりません。
他の仕事をこなしつつ再攻撃の機会を窺う
いったん兵を引き揚げた光秀は、信長に叱責を受けるどころか、以前にも増して重要な仕事を任せられます。
大坂の本願寺や雑賀攻め。
あるいは大和の松永攻めなど、畿内の作戦行動に従事していました。

2020年3月に高槻市の市立しろあと歴史館が発表した松永久秀の肖像画/wikipediaより引用
あまりに多忙すぎるがゆえに、このころ病を発症したともいわれていますが、無事に回復しております。
天正5年(1577年)以降は小規模な丹波攻めが続き、そして天正6年(1578年)、いよいよ大規模な軍事行動を起こすときがやってきます。
このころ赤井直正や波多野秀治は、毛利氏や武田氏と連携して反攻の機会をうかがっていたようです。
しかし、勢力を拡大していく信長に対して、効果的な対抗策を見いだせないまま時間が経過。
ついに光秀の猛攻に晒されることになります。
と言っても、光秀もマルチタスクをあまりに抱えさせられていて、丹波に出陣しては大坂へ呼び出されたり、再び丹波に戻っても次は播磨へ、という具合で劇的に勢力を一変させるまでには至りません。
それでも少しずつ丹波制圧を進めていくと、ついに波多野氏の本城である八上城の包囲にまでたどり着きました。

八上城のあった高城山/wikipediaより引用
八木城を兵糧攻め
波多野氏相手の攻城戦は、かなりの持久戦になりました。
光秀も無闇な力攻めは行使せず、城を取り囲んでの兵糧攻め。
織田軍の兵糧攻めと言えば、豊臣秀吉による【三木の干し殺し】や【鳥取の渇え殺し】が有名です。
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鳥取の渇え殺しと三木の干し殺し|秀吉と官兵衛が仕掛けた凄絶な飢餓の包囲戦
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同時期に、光秀も同じような攻撃を仕掛けており、八木城内でも餓死者が続出するようになっておりました。
事ここに至っても、城主の波多野秀治は「玉砕覚悟!」と抵抗を止めません。
しかし、味方が踏ん張っていた支城の氷上城までもが落城すると、当主ではなく家臣たちが限界を迎えてしまいます。
そして八上城、ついに落城――。
波多野秀治およびその兄弟らは市中引き回しの挙句、安土城で磔にされて波多野氏は滅びました。
光秀は自身の作戦を妨害した仇敵を葬り去ると、続いてかつて打倒した宇津氏をもう一度叩くべく宇津城に攻め込み、これもまた手早く落とします。
丹波衆の裏切りも心配なくなった光秀は、いよいよ赤井氏が居を構える黒井城を目指して進軍。
黒井城をめぐって一大決戦が繰り広げられる! と思われましたが、実際はそうなりませんでした。
そこにはもう猛将・赤井直正の姿が無かったのです……。
いったい何が起きていたのか?
第二次黒井城の戦い
赤井氏を支えてきた悪右衛門尉こと赤井直正。

赤井直正イメージ(絵・中川英明)
なぜ、彼が黒井城にいなかったか?
実は天正6年(1578年)に亡くなっていました。
死因は不明ながら、少なくとも第二次黒井城の戦いが勃発する以前にはこの世を去っていたと思われます。
直正は、武勇に優れているだけでなく家中の統率力という面でも突出していたため、決戦前に彼を失ったのはあまりに大きな痛手でした。
当主の赤井忠家は形式上の権威であり、軍政だけでなく国政のほとんどが直正の手によって執り行われていたのです。
直正の死を受け、主君の忠家を補佐していたのは赤井直信でしたが、素性はほとんど分かっていません。
取り立てて能力を象徴するような逸話も残されておらず、知略や武力の突出した武将ではなかったと思われます。
明智軍に向かって捨て身の突撃!
また、周辺の状況も以前とは一変しておりました。
丹波の大半が光秀の勢力下に入ってしまっていたため、赤井氏は完全に孤立していたのです。
黒井城以外の支城も続々と落とされており、仮に赤井直正が生きていたとしても戦局を覆せるほどの働きができたかどうかは微妙です。
こうした数々の不利を抱えたまま光秀の攻撃を迎えた赤井氏。
籠城によって飢餓状態へと追い込まれていくと、おとなしく白旗を挙げる……のではなく、なんと城を打って出て、明智軍に向かって突撃を開始しました。
まさに武士の魂とでも言いましょうか。
死を覚悟した死兵は何よりも恐ろしい――とは言いますが、だからといって気合いで逆転できるほど光秀は甘くありません。
決死の赤井軍は明智軍に返り討ちにされ、城は占拠されてしまいます。
主君の赤井忠家は、落城するやいなや全力で逃亡ました。
こうなると普通は落ち武者狩り等に遭って、敵へ差し出されるのがお馴染みのストーリーですが、忠家の逃げ足は凄まじく、光秀の追撃を振り切って生き延びます。
黒井城と赤井氏のその後
かくして赤井氏は滅び去り、足掛け4年におよぶ光秀の丹後平定は完了。
光秀の生涯において最も輝かしい功績と考えられており、彼は織田家臣においての地位をまた一段と高めていきます。
丹波を平定した光秀は、そのまま同エリアの支配を任されることになりました。
黒井城も光秀の管轄となり、重臣・斎藤利三に統治を任せます。

斎藤利三/wikipediaより引用
しかし、その栄華も長くは続きませんでした。
ご存知、1582年に【本能寺の変】を強行すると、豊臣秀吉の【中国大返し】から【山崎の戦い】へと持ち込まれ、明智光秀も斎藤利三も滅び去ってしまうのです。
黒井城の後釜には、豊臣秀吉家臣の堀尾吉晴が入城しました。
堀尾吉晴が別の領地へ転封されると、黒井城も歴史の表舞台から消え去ります。
そして、再び着目されるのが天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いのとき。
赤井直正の弟である芦田時直(赤井時直)が徳川方として黒井城で兵を挙げ、この活躍が家康の目に留まり、直正の子息が取り立てられるという約束を取り付けたというのです。
★
なお、光秀に黒井城を追われ、這々の体で逃げ出した赤井忠家は……。
秀吉が天下を掌握すると、馬廻衆の職に就き、関ヶ原では東軍に味方。
戦後も幕府の旗本武将として家名をつないでいきます。
さすが悪右衛門尉の血縁者たち。
城は滅びても、家は立派に残すのでした。
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【参考文献】
『日本歴史地名大系:黒井城跡』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学研パブリッシング)』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名大辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち(中央公論新社)』(→amazon)
和田裕弘『織田信長の家臣団―派閥と人間関係(中央公論新社)』(→amazon)
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)






