十七箇条意見書と殿中御掟

足利義昭(左)と織田信長/wikipediaより引用

足利家

信長が義昭に本気でダメ出し「殿中御掟」「十七箇条意見書」には何が書かれている?

最初はラブラブ蜜月の仲だったのに、すれ違いから罵り合い、果ては殺し合いにまで発展してしまう――。

戦国時代の織田信長足利義昭は、まさにそんな関係でした。

織田軍の助力で上洛した義昭は将軍に就任。

本来の主従関係を考えれば義昭が上の立場ですが、実際は信長から何かと物言いがついており、注意された義昭のほうもいつしか「信長、フザけんな!」となっていくのです。

では、信長の物言いとは、どんな内容だったのか?

というと、これが実際に残されていて、永禄12年(1569年)1月14日に出された【殿中御掟】と、元亀3年(1572年)9月の【十七箇条意見書】が代表的なものとなります。

殿中御掟の読み方は「でんちゅうおんおきて」と読み、十七箇条意見書は文字通り「17個のクレーム」で、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』でも取り上げられていました。

ドラマでは具体的に一つ一つは記されていなかったので、本稿では、前後関係を踏まえながら全てを見て参りましょう。

※後に出された十七か条のほうが、より突っ込んだ内容だけに断然面白くなります

 


兄の義輝を殺されアッチコッチを流浪

兄である十三代将軍・足利義輝が三好一派に殺されてから、三年間あっちこっちを流浪していた足利義昭。

最終的に、三淵藤英細川藤孝明智光秀らのおかげで身を寄せたのが織田家でした。

細川藤孝/wikipediaより引用

織田信長は、後世のイメージに反して将軍家や皇室・朝廷などを割と大切にしていましたので、義昭自体を保護することは問題なかったでしょう。

そして信長とその妹婿・浅井長政らの協力によって、義昭は、三好家が跋扈していた京都に戻ってくることができました。

義昭だけならともかく、今をときめく織田軍が背後にいては、三好家に対抗手段はありません。

京都から退き、彼らが後釜に据えた十四代将軍の足利義栄(よしひで)は病死。

義昭が将軍の座に就くための障害は全て取り除かれました。

 


「室町殿御父」と呼ぶほど信長を慕っていた

正当性のある将軍の存在は、諸国の大名からも歓迎されます。

島津家や毛利家からお祝いが届いたりして、義昭もヤル気満々。

足利義昭/wikipediaより引用

信長が岐阜へ戻った隙を突いて、一度、三好家から攻撃されたこともありましたが(本圀寺の変)、織田軍が二条城を整備して義昭の安全を保証すると、それも落ち着いていきます。

何から何まで世話を焼いてくれた信長に、義昭はこの時点では絶大な信頼と感謝を寄せていました。

それは信長に「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」という称号を与えたことにも現れています。

手紙では略して「御父」と書いていますね。

数歳しか変わらないのに大袈裟な気もしますが、これは他の幕閣と相談して決めた称号だったりします。誰か、もっとツッコめなかったん?

まあ、この時点で信長の長子・織田信忠は既に元服が視野に入る年齢になっていましたし、義昭はまだ人の親になる前&自分の父親との思い出もあまりないですから、信長のどこかに「父性」を感じたのかもしれません。

そういうことにしておきましょう。

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