豊臣秀吉と柴田勝家がぶつかり、秀吉が勝利を掴んだ【賤ヶ岳の戦い】。
この著名な合戦で名を挙げたのが、俗にいう【賤ヶ岳の七本槍】です。
【賤ヶ岳の七本槍】
福島正則(1561-1624年)
加藤清正(1562-1611年)
加藤嘉明(1563-1631年)
脇坂安治(1554-1626年)
平野長泰(1559-1628年)
糟屋武則(1562-1607年)
片桐且元(1556-1615年)
自身が成り上がり者で配下を持たぬ秀吉が、地盤を固めるため若武者たちを自慢&アピールしたという説も根強いですが、実はこの七本槍、本当は九本槍だったのでは?なんて指摘もあったりします。
一体どういうことなのか?
【賤ヶ岳の戦い】で柴田勝家を戦場から逃し、自身は秀吉に敗北した佐久間盛政、最期の場面から見ていきましょう!
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佐久間の最期
◆戦国時代には「これぞ漢!」という武将が何人もおりますが、そのエピソードにおいて一二を争うのが佐久間盛政でしょう。
柴田勝家の下での働きが凄まじかったことから「鬼玄蕃」と称された盛政は、賤ヶ岳の戦いで敗戦の将となり秀吉に捕らえられます。
賤ヶ岳の戦いで秀吉と勝家が正面から激突! 勝敗を決めたのは利家の裏切りか
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そして、秀吉からは「肥後をやるからオレの家臣になれよ」と誘われるのです。しかし……。
こんな好条件の話を蹴り、あろうことか「罪人としての斬首刑」を自ら望んでしまう盛政。刑の執行日、京都ではナマの「鬼玄蕃」を一目見ようと、大勢の人が集まったといいます。
その生涯については、以下の記事をご覧ください。
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7+α
◆賤ヶ岳の七本槍は、リアルに活躍したメンバーに送られた――というよりも、秀吉が子飼いの武将たちに箔を付けさせるための喧伝だったという説も根強いです。
実際は九本槍で以下の2名も数えるべきでは?という見方もあります。
桜井家一
(桜井佐吉家一・さきちいえかず)
石川一光
(石川兵助一光・ひょうすけかずみつ)
両名の詳細については記事末にて!
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