大和の実力者・松永久秀――。
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前回(149話)、この久秀が信長に謀反を起こしたことに注目しましたが、その直後、当時の織田家が恐れていたであろうことが現実となりました。
久秀に続く裏切り者が現れたのです。
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信貴山城と連携されたら厄介だ
松永久秀に続いて信長に挙兵したのは森秀光(正友)と海老名勝正(友清)。
両名は片岡城(北葛城郡上牧町)に立てこもりました。
この片岡城と、久秀父子のいる信貴山城(生駒郡)は、現代の道路で10Kmほどしか離れていません。連携されると、少々面倒なことになります。
そこで、織田軍は先に片岡城を攻略することにしました。
攻撃を担当した武将は細川藤孝・細川忠興・細川昌興(興元)らの父子に始まり、明智光秀、筒井順慶、そして山城衆。
いずれも本能寺の変や光秀と関わり深い方たちばかりですね。
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10代半ばの忠興・昌興兄弟が一番乗り!
彼らは天正五年(1577年)10月1日に城へ攻め寄りました。
中でも、まだ10代半ばの忠興・昌興の兄弟が一番乗りだったといいます。
細川忠興はこの年の【紀州征伐】、昌興はこの【片岡城の戦い】が初陣だったそうです。さすが名門だけあって、二人とも勇敢ですね。
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余談ですが、このとき昌興が用いたという甲冑が、後年彼の領地となった栃木県芳賀郡の八雲神社に現存しているそうで。
武将が用いたとされる武器防具は数多くありますが、初陣時のものはなかなか珍しいのではないでしょうか。
他の例だと、徳川家康が初陣時に身に着けたとされる「金溜塗具足」が久能山東照宮博物館(静岡市駿河区)に収蔵されていますね。
閑話休題。
忠興・昌興に続き、片岡城へ攻め寄った織田軍は、あっという間に天守へ詰め寄りました。
城方は鉄砲や弓で応戦しましたが、矢玉には限りがあります。撃ち尽くした後は打って出るしかなく、やはり数に押され、秀光と勝正を含む150人ほどが討死しました。
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