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信長から感状を与えられた
もちろん、織田軍も無傷では済みませんでした。
藤孝の部下30余名、光秀の部下20余名が討死したといいます。
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ただし、首尾よく前哨戦を終えたことで、信長の機嫌は上々だったようです。
特に少年ながらに一番乗りをした忠興・昌興兄弟の働きに感心し、感状まで与えたとか。
感状というのは、現代でいう表彰状のようなものであり、功績に対する記録も兼ねていました。
「いつの戦でどのような功績を挙げ、誰に認められたか?」ということを示す書面ですので、もし他家へ仕えることになったとき、感状を持っていればセールスポイントになりました。
まぁ、ある種の職務経歴書ですね。
忠興・昌興は自ら主君替えをしたことはないので、単純に名誉として受けたと思われます。
彼らは1560年代生まれですから、1534年生まれの信長にとっては当時の基準だと孫に近い世代です。
感状を与えてやる気を引き出すことで、末永く「織田氏へ忠実に仕えたい」と思わせたかったのかもしれません。
なお、『信長公記』では触れられませんが、この戦の翌年、忠興は信長の意向で明智光秀の娘・明智たま(細川ガラシャ)と結婚しています。
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おそらくこの戦の時点で、信長は忠興を「将来織田氏を支えうる若者の一人」とみなしていたのでしょう。
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)