細川忠興/wikipediaより引用

細川家 信長公記

片岡城の戦い(織田vs松永)で忠興と昌興兄弟が大活躍|信長公記第150話

2020/06/17

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信長から感状を与えられた

もちろん、織田軍も無傷では済みませんでした。

藤孝の部下30余名、光秀の部下20余名が討死したといいます。

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ただし、首尾よく前哨戦を終えたことで、信長の機嫌は上々だったようです。

特に少年ながらに一番乗りをした忠興・昌興兄弟の働きに感心し、感状まで与えたとか。

感状というのは、現代でいう表彰状のようなものであり、功績に対する記録も兼ねていました。

「いつの戦でどのような功績を挙げ、誰に認められたか?」ということを示す書面ですので、もし他家へ仕えることになったとき、感状を持っていればセールスポイントになりました。

まぁ、ある種の職務経歴書ですね。

忠興・昌興は自ら主君替えをしたことはないので、単純に名誉として受けたと思われます。

彼らは1560年代生まれですから、1534年生まれの信長にとっては当時の基準だと孫に近い世代です。

感状を与えてやる気を引き出すことで、末永く「織田氏へ忠実に仕えたい」と思わせたかったのかもしれません。

なお、『信長公記』では触れられませんが、この戦の翌年、忠興は信長の意向で明智光秀の娘・明智たま(細川ガラシャ)と結婚しています。

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おそらくこの戦の時点で、信長は忠興を「将来織田氏を支えうる若者の一人」とみなしていたのでしょう。

📚 『信長公記』連載まとめ

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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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