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【賤ヶ岳の七本槍】
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福島正則
豊臣秀吉の縁者として知られる子飼いの武将。酒好きで粗暴なイメージもあるが、各種の奉行を務めるなど単なる荒武者ではないともされる。
賤ヶ岳の戦いでは先駆けで敵将・拝郷五左衛門に襲いかかり、討ち取った。戦後は5,000石を与えられ、七本槍の中では筆頭の扱いとされる(他は3,000石)。
【関ヶ原の戦い】では石田三成との対立から東軍につくも、徳川政権下では失脚し、不遇の晩年を迎えた。
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加藤清正
福島正則と同じく秀吉の縁者であり烏帽子親(元服の儀式)にもなってもらっている。
若い頃から武勇と知略を評価され、賤ヶ岳のときには持ち馬が病気だったため、徒歩で従軍。このとき豊臣軍は大垣城から賤ヶ岳までの二十里(約79km)を一気に行軍したが、清正は健脚でもあり付き従ったという。
賤ヶ岳の戦場では凄まじい奮闘の末に山路将監(やまじしょうげん)を討ち取った。
慶長16年(1611年)に病没というが、豊臣家への恩義もあることから、それを警戒した徳川方の暗殺説も根強い。
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加藤嘉明
織田信長の四男にして秀吉の養子である羽柴秀勝に仕え、後に300石で秀吉の直臣に。
豪胆な性格だったとされ、文禄・慶長の役では水軍として参戦、敵船に乗り込んで斬殺するなどの武功を挙げている。
賤ヶ岳の戦いでは際立ったエピソードはないが、他の者と同じく戦功を挙げ、3,000石を拝領した。
脇坂安治
当初は明智光秀に仕え、その後、16才で秀吉に仕えたとされる。
勝手な行動で度々秀吉を激怒させたが、最終的には武勇ある者として信頼され、賤ヶ岳の戦いでは柴田三左衛門を破った功績が語られる。
九州征伐や小田原征伐、朝鮮出兵にも参加。
関ヶ原の戦いでは当初西軍に属しながら、小早川秀秋の攻撃に応じて東軍に寝返り、戦いの趨勢を決める一人となった。
戦後は伊予大洲53,000石へと大出世を遂げている。
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平野長泰
天正7年(1579年)21才の頃から秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦い(1583年)に参戦。他のメンバーと同じく3,000石を貰う活躍をして、後に5,000石へ。
【小牧・長久手の戦い】では、敗走する豊臣秀次を助けるため敵と戦い首級を得る。
関ヶ原の戦いでは東軍に属して、後に徳川秀忠に仕えた。
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糟屋武則(加須屋真雄)
もともとは三木城・別所長治の家臣。同城が干し殺しで陥落する前に秀吉の小姓になったとされる。
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賤ヶ岳の戦いでは宿屋七左衛門を討ち、戦後に得た石高3,000を後に12,000石まで飛躍させている。
小牧・長久手の戦いをはじめ、朝鮮出兵や小田原征伐でも活躍。
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関ヶ原の戦いでは西軍に属して伏見城の攻撃にも参加しており、敗戦後はすべてを失うが、後に江戸幕府に許され500石で仕えた。
片桐且元(片桐直盛)
秀吉の子・豊臣秀頼の傅役になるほど信頼され、後に徳川家康との板挟みになったことで知られる。
賤ヶ岳の戦いでは特記すべきエピソードはないが、他の武将と同様に3,000石を与えられた。
九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵などの戦場だけでなく、各種内政の奉行も務めるなど、吏僚としての能力も評価されている。淀殿に疑われて大坂から退去した後、家康のもとでも同様に活躍した。
大坂夏の陣後は大和・河内・山城・和泉など畿内の主要エリアで4万石を与えられるも、その後ほどなくして死去。
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桜井家一(いえかず)
秀吉の弟・豊臣秀長に仕えた後、豊臣秀保の家臣となる。
賤ヶ岳の戦いでは一番槍の戦功を挙げ、糟屋武則が討った宿屋七左衛門も、最初は桜井家一と槍合わせをしていたものだったという。
秀保の没後、秀吉に仕えるも、割と早い時期(慶長元年・1596年ころ)に亡くなったとされる。
石川一光(かずみつ)
父の家光が豊臣秀吉の馬廻衆。一光も同様に秀吉に仕えたとされる。
福島正則が討った拝郷五左衛門に対し、最初に対峙したのはこの石川一光とされ、実は討ち果たされている。
漫画の中で「戦死しちゃったから」というのはこのことを意味。拝郷五左衛門は佐久間盛政軍に属していた勇将であった。
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著者:アニィたかはし
文:五十嵐利休
【参考】
楠戸義昭『激闘! 賤ヶ岳 (歴史新書)』(→amazon)
渡辺誠『荒武者!秀吉軍団 賤ヶ岳七本槍と池田恒興』(→amazon)
阿部猛・西村圭子 (編集)『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
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