どれだけ固く結ばれても、明日には決裂している戦国時代の同盟関係。
特にその傾向が強く見えるのが織田信長であろう。
確かに信長は、他の戦国大名と比べて支配エリアが圧倒的に広く、関係してくる諸勢力も多いため、同盟の破綻や離反リスクも自然と高くなる。
しかし、それにしても「裏切られ過ぎじゃない?」というのが、関連ドラマや漫画を見ていての率直な感想であろう。
そこで本記事では、織田信長の「同盟・外交策」に注目。

織田信長/wikimedia commons
織田家の家督を継ぎ、本能寺の変にて敗死するまで、どのように他の勢力と付き合ってきたか、振り返ってみよう。
婚姻を伴う軍事同盟
斎藤道三
織田信長にとって最初の後ろ盾となったのが斎藤道三。

斎藤道三/wikimedia commons
天文十八年(1549年)、父の織田信秀と道三の和睦の証として、信長は濃姫(帰蝶)を正室に迎えた。
手はずを整えたのは傅役として知られる平手政秀であり、『信長公記』首巻には「平手中務(政秀)の才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城道三聟に取結」と記されている。
聖徳寺での会見で道三が信長の器量を見抜いたという逸話は『信長公記』首巻に記されているが、同時代の一次史料での確認はできない。
弘治二年(1556年)、道三は家督を譲った子の斎藤義龍と長良川で戦い、敗れて討死。
以後、信長は義龍と敵対関係に陥った。
美濃の支配者である斎藤道三と結んだ縁は、世代交代により呆気なく失われてしまった。
徳川家康(清洲同盟)
「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれ、今川家から独立した徳川家康。
その家康との間に結ばれたのが清洲同盟である。

徳川家康/wikimedia commons
成立時期は永禄四〜五年(1561〜62年)に開かれた清洲会見とするのが従来の通説である。
しかし、近年の研究では清洲会見自体が後世の創作であり、実際の成立は桶狭間の戦い直後の永禄三年(1560年)ごろと見る見解もある。
永禄十年(1567年)には娘・五徳が家康の嫡男・松平信康に嫁ぎ、関係をいっそう固めている。
家康が東の今川・武田に備え、信長が西へ進むという互いの利害が長く噛み合ったことが、この同盟を支えた。
天正七年(1579年)の信康事件という危機を経ても、最終的に「本能寺の変」まで続いた、戦国期でも異例の長期同盟だった。
浅井長政
北近江の浅井長政とは、南近江の六角氏や美濃の斎藤氏に対抗するため、妹・お市の方を嫁がせて結ばれた。

浅井長政(左)とお市の方/wikimedia commons
輿入れの時期はかつて永禄十年頃が通説とされていたが、近年は永禄四年(1561年)頃とする早期説も有力視されており、いまだ確定していない。
しかし元亀元年(1570年)に信長が越前の朝倉義景を攻めると、朝倉と縁の深い長政は朝倉方へ転じて信長の背後を襲う。
信長は金ヶ崎から撤退を余儀なくされ、同盟は呆気なく破綻した。
信長はその後、姉川の戦いで浅井・朝倉軍を破り、天正元年(1573年)には小谷城を攻め落として長政を自刃に追い込む。
妹・お市の方は救出され、のち柴田勝家に再嫁するも、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、勝家と共に自害するという数奇な生涯をたどった。
武田信玄(甲尾同盟)
東美濃における国境での衝突を避けるため、永禄八年(1565年)ごろ、織田家と武田家の間で結ばれた同盟である。
いわゆる甲尾同盟(織田・武田同盟)である。
信長は家臣・遠山直廉の娘(龍勝院)を養女に取って信玄の四男・武田勝頼に嫁がせ、のちに嫡男の武田信勝を産んだ。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikimedia commons
また、信玄の娘・松姫と信長の嫡男・織田信忠の婚約も整えられ、二重に縁が結ばれている(婚約は元亀元〜二年頃とされる)。
しかし元亀三年(1572年)になり、信玄が西上作戦を開始すると、三方ヶ原の戦いで徳川織田連合軍が武田軍に大敗。
両家の同盟は事実上の破綻を迎えた。
信忠との婚約が破綻した松姫は、のち出家して仏門に入り、八王子の信松院で生涯を終えている。
信玄の死から9年後、信長は天正十年(1582年)に勝頼を攻め、甲斐武田氏を滅亡へと追い込んだ。
通交・友好にとどまった関係
上杉謙信
永禄七年(1564年)頃から通交が始まり、やがて提携へと進んだ上杉謙信との関係。

上杉謙信/wikimedia commons
永禄十一年(1568年)には、信長が上杉方に対して武田信玄との対立姿勢を示すなど、関係はかなり踏み込んだものになっていた。
しかし信長が、結局は武田との同盟を優先したことで関係は次第に冷え、天正四年(1576年)、謙信が毛利・本願寺と結んで反信長へ転じて関係は決裂。
翌年には加賀方面で織田方と上杉方が衝突したとされる(手取川の戦い・一次史料は乏しい)。
両家の対立は天正六年(1578年)に謙信が急死するまで続いた。
毛利元就・輝元
永禄十一年(1568年)に足利義昭を擁立して上洛した頃から友好関係が始まり、天正四年(1576年)ごろまで続いた。

毛利元就/wikipediaより引用
両者の関係を決定づけたのは、他ならぬ足利義昭である。
天正四年(1576年)2月、京を追われた義昭が毛利領(備後の鞆・とも)へ下向すると、同年五月、輝元が義昭の要請を受諾。
信長との敵対を選んだことで、織田毛利の関係は破綻した。
以後、信長は羽柴秀吉を中国方面へ投入し、毛利との全面戦争へ突入していく。
従属・上下関係を含む提携
松永久秀・三好義継
松永久秀と三好義継は、将軍・足利義輝殺害後の畿内政治に深く関わった三好政権の有力者。
義昭を奉じて上洛を目指す信長にとっては、畿内を押さえるための格好の提携相手となった。

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)/wikimedia commons
永禄十一年(1568年)にいざ上洛を果たすと、久秀は信長のもとへ娘を人質として差し出している。
※この娘はのち信長の養女となり、阿波三好家の三好長治に嫁ぐ手はずとなったが、縁談は破談に終わった
松永は、のちに信長包囲網へ加担して離反し、いったんは許される。
しかし、天正五年(1577年)に再び反旗を翻して信貴山城へ籠ると、織田信忠軍に攻められて敗死した。
なお、三好義継は天正元年(1573年)、足利義昭に呼応して信長に叛き、若江城を攻められて自害している。
長宗我部元親
天正三年(1575年)ごろ、明智光秀を取次として織田家と提携関係を結んだ。
織田信長は元親の嫡男に「信」の字を与え、長宗我部信親と名乗らせた(元服は天正六年前後)。

長宗我部元親/wikipediaより引用
織田が上位に立つ提携であり、天正八〜九年(1580〜1581年)頃、四国の大半を制した元親に対し、信長はこれまでの方針を大転換。
かつては、奪った分だけ領土にしてよいとする「切り取り次第」を認めていたのを「土佐一国と阿波南半国のみ安堵」とする条件を突きつけ、他の領土返還を迫った。
元親は当然これに反発し、両者は対立へ。
この四国政策の転換は、いわゆる本能寺の変「四国説」とも関わって語られる有力説の一つとなっている。
まとめ|信長の同盟が長続きしなかった理由
戦国大名の外交で重要な手段となりやすいのが婚姻である。
織田信長も婚姻関係を活用したが、それだけに頼ったわけではない。
足利義昭の将軍権威を利用し、起請文や贈答、取次、偏諱、養女縁組など、様々な手段を用いて、織田政権の秩序へ組み込もうとした。
しかし、織田家の勢力が急拡大すると、同盟相手にとっては「安全保障」だった関係が、やがて「従属圧力」に変貌。
外交関係は次々と行き詰まっていく。

織田信長/wikimedia commons
こうして並べてみると、信長の同盟は婚姻という"保険"をかけても十分ではなく、利害が衝突すればいとも容易に崩れている。
血縁すらも歯止めにはならない。
本能寺の変まで続いた長期同盟という意味で、唯一の例外と言えるのが徳川家康であろう。
織田家との協調路線が徳川家の勢力拡大に合致し続け、信康事件という、嫡男の死を伴う危機を迎えても、なお同盟は維持された。
この選択が、のちの徳川の天下取りへの布石となっていくのだから興味深い。
結局、同盟の成否を左右したのは、血のつながりよりも利害の一致だったのだろう。
なお、以下の記事は同盟ではなく傘下の離反であるが、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目されたところ。
よろしければ併せてご覧あれ。
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参考文献
- 岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣出版)
- 日本史史料研究会編『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』(2014年10月 洋泉社)
- 太田牛一著・中川太古訳『現代語訳 信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
- 和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料―』(2018年8月 中央公論新社)
- 谷口克広『信長の政略 信長は中世をどこまで破壊したか』(2013年6月 学研パブリッシング)
- ほか
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