織田信長の「敵」と言えば?
普通は、浅井朝倉や毛利、武田など各地の戦国大名をイメージされる方が多いでしょう。
しかし、そのうち最も強敵だったのは?と当人に尋ねてみたら、答えは
「尾張統一」
と返ってくるかもしれません。

実はこの信長、父・織田信秀の死により家督を継いでからというもの、ひたすら身内争いに忙殺されてきました。
その期間、実に14年。
後に全国を制覇していった勢いと比べると、あまりにも長い時間を尾張の統一に要したのですね。
ではなぜ、そんな事態に陥ったのか?
1/11(日)放送の大河ドラマ『豊臣兄弟』第2回放送では、織田家の身内争いの一つ「岩倉城の攻防」にスポットが当てられました。
それはどんな戦いだったのか、という点を含め、本記事で「信長の尾張統一」を確認して参りましょう。
織田弾正忠家は家臣の家臣
なぜ織田信長は身内争いに忙殺されたのか――それをスッキリさせるため、まず最初に確認しておきたいことがあります。
信長が生まれた「織田弾正忠家(おだ だんじょうのじょうけ)」の立ち位置です。
以下のチャート図通り、尾張国内における織田弾正忠家は、本来、かなり低い地位でした。
◆尾張の支配体制
守護・斯波氏
│
守護代
・岩倉織田氏(伊勢守家)
・清洲織田氏(大和守家)
◆清洲織田氏
主家・清洲織田氏(大和守家)
│
家臣
・清洲三奉行(因幡守家・藤左衛門家・弾正忠家)
名目的に尾張で一番エラいのは斯波氏であり、それを支えるのが守護代の岩倉織田氏(伊勢守家)と清洲織田氏(大和守家)。
信長の実家である織田弾正忠家は、清洲織田氏の家臣に過ぎません。
斯波氏から見たら、家臣の家臣です。
それが津島や熱田の利権を押さえることによって急速に力をつけ、信長の祖父・織田信定と父・織田信秀の代で台頭すると、事実上、各織田氏(尾張)のトップ立つようになりました。
そんな状況で、織田信秀が死んだらどうなるか?

織田信秀像/wikipediaより引用
岩倉織田氏や清洲織田氏にしてみれば、権力奪還の絶好のチャンス!
ここぞとばかりに信長とは離反していったのです。
それでなくても信長は世間に「うつけ者」として知られていましたので、周囲の各織田氏にとってみれば「アホに国を任せていたら滅びてしまう」として死活問題とも感じられたでしょう。
信長はそんな状況をどうやって脱したのか?
武力でねじ伏せた14年間
織田信長が尾張を統一できた理由は単純。
「武力」です。
西暦でいうと1552年から1565年までの14年間、ひたすら戦いを続け、力でねじ伏せた――

信長甲冑イメージ/絵・富永商太
その軌跡を年表で確認してみましょう。
◆尾張統一の戦い
①1552年 赤塚の戦い(vs山口親子)
②1552年 萱津の戦い(vs坂井大膳)
③1554年 安食の戦い・清州城乗っ取り(vs坂井大膳)
④1556年 稲生の戦い(vs弟・信勝)
⑤1558年 浮野の戦い(vs織田信賢)
⑥1559年 岩倉城の戦い(vs織田信賢)※『豊臣兄弟』第2回放送→この戦いで尾張をほぼ統一
⑦1561年 梅ケ坪城の戦い(vs三宅氏)
⑧1562年 於久地城の戦い(vs織田信清)
⑨1565年 犬山城の戦い……織田信清を追放して尾張を完全統一
家督を継いでからというもの、ほぼ毎年、何らかの勢力と戦っていたのですね。
中には、後に重臣となる柴田勝家や、信長の実弟・織田信勝との争いもあります。
上記の合戦はいずれも『信長公記』に記されたもので、弊サイトでも各合戦の記事を掲載しておりますので、よろしければ後ほどご覧ください(本記事末に掲載)。
なお、大河ドラマ『豊臣兄弟』で信長が勝利した「岩倉城の戦い」は、対戦相手が「織田伊勢守家」とだけ語られていました。
当主は織田信安でしたが、実はこのときは殺されていません。
信安が次男の織田信家に伊勢守家を継がせようとして、長男の織田信賢によって、ちょうど城を追い出されていたのです。
どこでも跡目問題というのは本当に難しいものですね。
その辺の詳細も以下の記事にてご確認いただければ幸いです。
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岩倉城の戦い|信長公記第32話
続きを見る
美濃斎藤や駿河今川とも
ともかく織田信長が凄かったのは、こうした身内争いに忙殺されていた真っ最中でも、他国の争いに対応していたことでしょう。
1555年「長良川の戦い」では、義父の斎藤道三がその息子である斎藤義龍と激突。
結果、道三は討ち取られますが、このとき信長は自ら救援に出向いたほどでした。

左が斎藤道三で右が斎藤義龍/wikipediaより引用
「帰蝶の実父であり、オレを理解してくれている義父を助けたい!」
そんな単純な精神論だけではなく、もしも美濃の国主が道三から義龍へ替わってしまえば、美濃まで敵に回って、ますます窮地に追い込まれてしまうからでしょう。
実際その後は義龍と争い、程なくして訪れた織田家究極のピンチが1560年「桶狭間の戦い」でしょう。
まだ尾張統一も完全に成し遂げていない信長。
傍から見ればアッサリ滅ぼされてもおかしくない状況で信長は戦国期最大の番狂わせをやってのけ、最大の苦難を乗り越えました。
このときですら、まだ尾張を完全に掌握しきれていなかったのですから驚き。
桶狭間の勝因は、色々と語られていますが、やはり武力があったのでしょう。
では、それはどんな武力だったのか?
というと、大河ドラマ『麒麟がくる』で非常に示唆的な名場面がありました。
武力の源泉は母衣衆と馬廻衆
大河ドラマ『麒麟がくる』で、本木雅弘さん演じる斎藤道三と、染谷将太さん演じる織田信長が初の対面を果たす場面。
道三からの問いかけに対し、信長はこんな言葉を放ちます。
「ここにいる佐々成政と前田利家は一騎当千の強者でござります」
佐々成政と前田利家といえば、確かに、信長親衛隊である黒母衣衆と赤母衣衆のトップ二人。

前田利家(左)と佐々成政/wikipediaより引用
その二人について、信長は力強くこう語ります。
長男の生まれではない二人は、そのままであれば穀潰しだけに、家を持つためには死ぬ気で働く――。
このときばかりはマムシの道三も息を呑み、信長の迫力に押されそうになりました。
史実の織田信長も、黒母衣衆と赤母衣衆を中心とした馬廻衆を非常に重視。
自身も普段から乗馬の鍛錬は欠かさず、常に彼らと戦場を走り回っており、そうした経験が、今川義元と大軍を相手にしても発揮されたからこそ、桶狭間での勝利を得られたのでしょう。
桶狭間の戦いでは、出陣を決意した信長が単騎で走り出すと、そこに馬廻衆が追いついてきたとされます。
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信長が戦場で頼りにした親衛隊「黒母衣衆」と「赤母衣衆」とは何なのか?
続きを見る
織田信長が、最終的に尾張統一を果たしたのは1565年のこと。
斎藤龍興を追い出し美濃を制したのは、そのわずか2年後(1567年・永禄十年)でした。
それから15年後に亡くなるまで全国へ所領を拡大し続けたことを考えると、尾張でジリジリとしていた14年間が惜しまれる気もしてきますね。
👨👦 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅
尾張統一戦の詳細記事
①1552年 赤塚の戦い(vs山口親子)
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赤塚の戦い なんだかほのぼの|信長公記第10話
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②1552年 萱津の戦い(vs坂井大膳)
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萱津の戦いで勝家も活躍|信長公記第11話
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③1554年 安食の戦い・清州城乗っ取り(vs坂井大膳)
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安食の戦いは勝家指揮|信長公記第16話
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④1556年 稲生の戦い(vs弟・信勝)
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稲生の戦いで信長一騎打ち!|信長公記第19話
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⑤1558年 浮野の戦い(vs織田信賢)
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浮野の戦いで一騎打ち|信長公記30話
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⑥1559年 岩倉城の戦い(vs織田信賢)※尾張ほぼ統一
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岩倉城の戦い|信長公記第32話
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⑦1561年 梅ケ坪城の戦い(vs三宅氏)
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梅ケ坪城の戦いと家康の独立|信長公記第37話
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⑧1562年 於久地城の戦い(vs織田信清)
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於久地城の戦いに忍者の血筋登場|信長公記第41話
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⑨1565年 犬山城の戦い……織田信清を追放して尾張を完全統一
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犬山城の攻略で丹羽長秀が暗躍|信長公記第43話
続きを見る
【参考書籍】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
『戦国武将合戦事典』(→amazon)







