戦国時代は先に殺ったもん勝ち――。
されど、あまりにも悲惨な最期だった尾張守護・斯波義統(しばよしむね)。
その息子である斯波岩龍丸は、織田信長の下に身を寄せ、再起を図ることになります(詳細は第15話)。
尾張守護・斯波義統の暗殺~戦国初心者にも超わかる信長公記15話
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今回はその続き、清洲衆との戦いです。
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当時は弟・信行派だった勝家が
家を追いやられ、家臣筋の信長に匿って貰う岩龍丸。
こうなると数年、十数年、あるいは生涯に渡って針のむしろ状態もありえそうですが、そこは電光石火がウリの織田弾正忠家です。
天文二十三年(1554年)7月18日、義統の死からほんの数日後――敵討ちであり、かねてからの念願だった清州城攻略の戦が始まりました。
今日では「安食の戦い(あじきのたたかい)」とか「中市場合戦」と呼ばれています。
戦の担当は、柴田勝家でした。
現代では、本能寺の変後にお市の方と再婚した信長の右腕――そんなイメージが強いですが、当時は信長ではなく、その弟・織田信勝(織田信行)の家老でした。
信長が家督を継いでからも「信行様のほうが当主にふさわしい」と思っていた人は多かったでしょうが、正式に命じられれば従わざるをえません。
おそらくは、信行にとっても「本来の守護である斯波氏の仇討ち」という大義名分はありがたく、反抗せずに動いたのでしょう。
『信長公記』の著者である太田牛一も、このとき以前から信長に仕え始めたらしく、勝家の配下として参戦しています。
柴田軍の中には、かつて斯波氏に仕えていた者も含まれていたようで、兵の士気はかなり高かったとか。
「主の仇討ち」士気の上がる一番の要因になりますから、織田氏側としては最大点に有効活用したでしょう。
17~8歳の若武者が織田三位の首を取る
こういった好条件が重なった柴田軍は、次々に清州方を押しやり、堀の中まで追い込みました。
牛一は
「柴田勢の槍が清洲勢の槍より長かったので、終始柴田勢が優勢だった」
と記しています。
この連載でも、7話の信長の日常や、13話の道三との会見などで度々触れてきた「信長軍の槍の長さ」が実践で活きた――ということですね。
このとき、義統に仕えていた由宇喜一という17~8歳の若武者が、浴衣のような軽装で奮戦、清州城家老の一人・織田三位の首を取りました。
おそらくは彼だけでなく、斯波氏に仕えていた他の武士も、大なり小なり手柄を上げたことでしょう。
信長公記には、三位の他にも、清洲勢の数十人が討死したとあります。
繰り返しますが、この戦は清洲の守護屋敷が襲撃されてからわずか一週間後のことです。
特に斯波氏側の人々からしたら、主の初七日に仇の首を供えるような気持ちだったでしょう。
清洲衆が天道に背いたからだ
このスピーディーな展開を、牛一は
「たった7日でこのようなことになったのは、清洲衆が天道に背いたからだ」
と評しています。
戦国の世にそんな事をいっていたらキリがない気もします。
が、「お天道さまが見ている」というような宗教的な価値観や道徳は、この時代でも存在していた――という見方をしておくべきでしょうかね。
こうして、立て続けに家老や兵を失った清洲衆。
そのまま信長との決戦になるかと思いきや、一風変わった結末を迎えます。
次回はその経緯のお話です。
長月 七紀・記
※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
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村木砦の戦い 信長が泣いた~戦国初心者にも超わかる信長公記14話
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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。
◆信長公記
大河ドラマ『麒麟がくる』に関連する武将たちの記事は、以下のリンク先から検索できますので、よろしければご覧ください。
麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き
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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)