織田信長を補佐した「黒母衣衆」と「赤母衣衆」とは何なのか?小姓と馬廻から選ばれた彼らは精鋭の親衛隊であり、自ら戦場へ駆け出す信長を常に補佐していた。そのメンバーや役割を確認してみよう。

上段:前田利家と佐々成政(右):下段:蜂屋頼隆と金森長近(右)/wikipediaより引用

戦国FAQ

信長が戦場で頼りにした親衛隊「黒母衣衆」と「赤母衣衆」とは何なのか?

加賀百万石の礎を築いた前田利家

豊臣秀吉に敗れ、最終的に切腹へ追い込まれた佐々成政

両者に共通する最大の特徴は?

それぞれ信長の親衛隊である「赤母衣衆」「黒母衣衆」に所属していたことであろう。

◆前田利家「赤母衣衆(あかほろしゅう)」

◆佐々成政「黒母衣衆(くろほろしゅう)」

二人共、この精鋭部隊から後に国持大名へと大出世を遂げるが、なぜそこまで評価されたのか?というと、やはり若い頃から常に信長の背中を追いかけ、数多の戦場で活躍してきたから。

単に信頼されていただけでなく、誰よりも信長の近くで戦い続けていたからであろう。

いったい彼らは織田軍の中でどんな存在だったのか?

黒母衣衆と赤母衣衆に注目してみたい。

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そもそも母衣とは?

まず「母衣」とは何か?

というと、以下の絵をご覧いただくと理解が早いと思われる。

馬に乗った若い男性にご注目を。

母衣のイメージ(室町時代以降は布を広げるための骨組みも作られた)

背中に背負ってるのが「母衣(ほろ)」。

歴史的には次の一枚が有名であろう。

熊谷直実/wikipediaより引用

平敦盛を追いかける熊谷直実

大きく赤い布が背中でたなびいているのが一目瞭然であろう。

背中に大きな母衣(布)を背負うということは、味方だけでなく敵からも一目瞭然の存在となり、目立つがゆえに背後から弓で狙われても、その母衣が矢を防いでくれる効果があるともされる。

いずれにせよ戦場では目立つ存在――。

ゆえに武勇がなければ務まらず、味方を鼓舞する名誉のある役目でもあった。

織田軍では、信長直属の部下として「馬廻衆(うままわりしゅう)」や「小姓衆(こしょうしゅう)」などがいて、そのうち選りすぐられた10名(計20名)のメンバーが黒母衣衆と赤母衣衆に選出された。

桶狭間の戦いをはじめ、稲生の戦い、天王寺砦の戦い、朝倉軍の追撃など。

信長は、緊急事態に自ら戦場へ駆け出していくことで知られるが、そうしたときに最初から付き従うのが小姓や馬廻であり、その筆頭が黒母衣衆と赤母衣衆だったのである。

では、実際に誰が名を連ねていたのか?

本記事で確認してみよう。

※母衣衆のメンバーは入れ替わりなどがあり、本記事では10名以上の記載となっています

 


黒母衣衆

まずは黒母衣衆から見ておこう。

河尻秀隆

河尻秀隆/wikipediaより引用

信長の父・織田信秀の代から仕え、桶狭間の戦いにも参加。

後に織田信忠を補佐する役目を担い、甲州征伐後は甲斐一国を任せられるまでになる。

本能寺の変後、武田の旧臣に討たれた。

中川重政

織田一門の武将。

信長の上洛後は京都の内政を任されるなど、秀吉や光秀らと並んで重用されていた。

しかし、実弟の津田隼人正が、柴田勝家の代官を斬殺してしまい、兄弟揃って改易。

後に呼び戻されるも、その後の活躍は伝わっておらず。

津田盛月

中川重政の弟で、初名は織田左馬允。

兄の中川重政が安土に置かれると、その補佐として同居。

上記のとおり改易に処されると、本能寺の変後は秀吉に仕え、外交などで活躍を。

佐々成政

佐々成政/wikipediaより引用

生年や出自などは不詳。

黒母衣衆として活躍した後、前田利家・不破光治と3人で越前2郡を任せられる。

秀吉とは折り合い悪く、肥後を任されるも一揆を起こして切腹へ。

毛利良勝(新助・新介)

なんといっても【桶狭間の戦い】で今川義元を討ち取ったとして知られる武将。

毛利新助と服部小平太

毛利新助と服部小平太が襲いかかる(作:歌川豊宣)/wikipediaより引用

しかしその後は武人としてではなく、通常の役人としての活動しか記録に残されていない。

本能寺の変では織田信忠のいる二条御所で討死。

生駒勝介

生駒親正の従兄弟とされる。

当初は犬山城の織田信清(信長の父・織田信秀の従兄弟)に従っていたが、後に信長のもとへ。

こちらは生駒親正/wikipediaより引用

水野帯刀左衛門

刈谷の水野氏一族の者と推定される。桶狭間の戦いでは丹下砦の守備につき、その後、名前が消えてしまう。

松岡九郎次郎

茶に通じていて、本能寺の変後は豊臣秀吉に仕える。

平井久右衛門

弓が得意な武将で、有岡城攻めでは弓衆を率いて、町に火矢を射ち込んだ。

京都馬揃えで弓隊を率いるほど。

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蜂屋頼隆

蜂屋頼隆の肖像画

蜂屋頼隆/wikipediaより引用

美濃出身の武将。

早くから馬廻衆として活躍し、上洛後は畿内での政務に携わり、その後も信長の主な合戦で活躍。

一時は和泉国も任されるも、豊臣政権の下では不遇であり、越前敦賀5万石へ。

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野々村正成

当初は美濃斎藤家に仕え、後に黒母衣衆へ。

長篠の戦いでは鉄砲衆を指揮したことでも知られる。

本能寺の変では二条御所に駆け込み、討死となる。

伊藤武兵衛

早い段階で信長に仕えていたが、後に、同僚を斬って出奔、今川家に仕えた。

中島主水正

織田信清の家臣で、犬山城では家老の一族だったと推測される。その後、信長の下で黒母衣衆へ。

 


赤母衣衆

次は赤母衣衆を確認しよう。

前田利家

前田利家の肖像画

前田利家/wikipediaより引用

言わずとしれた加賀百万石の藩祖。

若い頃は織田家を追い出されたこともあるが、その後は北陸方面で柴田勝家らと共に武功を挙げる。

勝家と秀吉により賤ケ岳の戦いでは、秀吉勝利のキッカケを呼び込み、豊臣政権で五大老へと大出世。

山口飛騨守

信長の小姓で赤母衣衆に選抜。

信長の近臣・坂井道盛を殺害して出奔すると、徳川家康を頼り、三方ヶ原の戦いで討死となる。

毛利長秀(秀頼)

信長の馬廻で赤母衣衆に選抜。

一説によると尾張守護・斯波義統の子とのこと。

甲州征伐で武田家が滅亡すると、信濃伊那郡を与えられて飯田城主となる。

木下雅楽助(織田薩摩守)

読み方は「きのした うたのすけ」で、中川重政や津田盛月の弟。

兄二人と同様に赤母衣衆へ。

兄の改易に連座して、その後は消息不明も、豊臣秀次に仕え、長久手の戦いで討死したとも伝わる。

織田越前守

信長の馬廻から赤母衣衆へ名を連ねるも、その他の事績は全くの不明。

岩室長門守

信長の小姓から赤母衣衆へ。

桶狭間の戦いで活躍するも、翌年、小口の戦いで討死。

当時、信長最愛の家臣だったとも目されている。

伊東長久

武力を誇る赤母衣衆。

尾張三本木村での戦いで編笠をかぶって戦い「編笠清蔵」と呼ばれる。

天正元年(1573年)、浅井長政の本拠地へ攻め込んだ小谷城の戦いでは、刀と脇差しを紛失しながら敵3人を討ち取ったと伝わる。

豊臣政権では、腰母衣衆・旗奉行を務めたとのこと。

飯尾尚清

桶狭間の戦いでは今川軍に鷲津砦を落とされるも生還。

その後、馬廻りとなり赤母衣衆となるも、役人としての活躍のほうが目立つ。

福富秀勝

信長の馬廻で赤母衣衆に選抜。

黒母衣衆の野々村正成と同様、長篠の戦いでは鉄砲衆を指揮した。

長篠合戦図屏風

長篠合戦図屏風より/wikipediaより引用

本能寺の変では二条御所で討死するが、それまで平時は小姓や馬廻の指揮官を務めていたと思われる。

塙直政(原田直政)

信長の馬廻で赤母衣衆に選抜。

上洛後は畿内の行政に携わり、信長と義昭の間では使者役も務める。

荒木村重明智光秀らと共に石山本願寺と戦い、討死。

渥美刑部丞

『高木文書』の中にだけ見られる名前。他の史料では確認できない。

金森長近

金森長近の肖像画

金森長近/wikipediaより引用

元は美濃出身だが、織田信秀の時代から仕官して信長の家臣へ。

美濃攻略の功を認められて赤母衣衆となり、その後も活躍。長篠の戦いでは酒井忠次の別働隊と共に織田軍5000を率いて、勝頼背後の砦を陥落させている。

その後も信長、秀吉、家康の下で活躍し、関ヶ原後は飛騨を中心に約6万石の領主となる。

猪子一時

織田信清(犬山城)から信長に仕えて赤母衣衆へ。

本能寺の変後は秀吉に仕えている。

黒田次右衛門

三河出身ながら、信長に見出されて馬廻から赤母衣衆へ。

加藤弥三郎

尾張熱田の豪族・加藤順盛の次男。

桶狭間の戦いで活躍するも、山口飛騨守と共に信長の近臣・坂井道盛を殺害して出奔。

徳川家康を頼った後、三方ヶ原の戦いで討死する。

浅井政澄

信長の馬廻から赤母衣衆へ。

嫡男の織田信忠に従うも、程なくして活躍の記録は見られなくなる。

 

黒と赤ではどちらが上だったのか?

織田信長の行動を支えた黒母衣衆と赤母衣衆。

いずれも小姓や馬廻から選ばれたエリート部隊であることは前述の通りだが、黒と赤では差があったのか?

ぶっちゃけ、どちらが強いとかあったのか?

というと、前田利家の言葉として「黒のほうが赤より少し上」というのが伝わっている。

しかし、当初の黒母衣衆は馬廻から、赤母衣衆では小姓から選ばれていて、「黒のほうが年長者が多かったため一段上だとされたのではないか?」と『信長の親衛隊』(中公新書)では指摘している。

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参考文献

  • 谷口克広『信長の親衛隊――戦国覇者の多彩な人材(中公新書 1453)』(中央公論社, 1998年12月20日, ISBN-13: 978-4121014535)
    書誌(公的): 国立国会図書館サーチ
    Amazon: 商品ページ
  • 日本史史料研究会(編)『信長研究の最前線――ここまでわかった「革新者」の実像(朝日文庫)』
    (朝日新聞出版, 2020年10月7日, ISBN-13: 978-4022620309)
    出版社: 朝日新聞出版(公式商品ページ)
    Amazon: 商品ページ

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編集管理人・五十嵐利休。 1998年に大学卒業後、都内の出版社に勤務。 書籍や雑誌の編集者を務め、2013年に新聞記者の友人と武将ジャパンを立ち上げた。 月間の最高アクセス数は960万PV超。 現在は企業のオウンドメディア運用やコンサルティング業務もこなしている。

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