吉川広家の肖像画

吉川広家/wikipediaより引用

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毛利家を救いながら裏切り者ともされる吉川広家 いったい関ヶ原で何をした?

寛永2年9月21日(1625年10月22日)は毛利一族の戦国武将・吉川広家の命日である。

父は、毛利元就の次男であり、猛将として名を轟かせた吉川元春

そんな元春の息子となれば吉川広家も勇名を轟かせて不思議ではないが、実際はその逆で「裏切り者」扱いされたりすることもある。

関ヶ原の戦いで「毛利輝元が西軍の総大将なのに、配下の吉川広家が東軍に通じていた」という、非常にややこしい状況に置かれてしまっていたからだ。

一体なぜこんな事になってしまったのか、スッキリさせておこう。

吉川広家の肖像画

吉川広家/wikipediaより引用

 


秀吉や三成との関係

天正10年6月2日(1582年6月21日)に本能寺の変が勃発。

備中高松城で水攻めをしていた豊臣秀吉は毛利と和睦をして、京へ引き返し(中国大返し)、山崎の地で明智光秀を討ち取った。

このとき、秀吉の背後へ襲いかかることもできた毛利は、そうしなかったことで後に秀吉との信頼関係は強固なものとなり、豊臣政権でも重要なポジションを得ている。

毛利は豊臣政権に欠かせない存在となった。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

では吉川広家、個人としてはどうか?

永禄4年(1561年)に吉川元春の三男として生まれた広家は、元亀元年(1570年)に初陣を果たすと、以降は兄の吉川元長と共に各地へ転戦。

本能寺の変後、秀吉が天下を治めていく過程で広家は人質として大坂城に置かれるが、それで確実に信頼を得ていったのだろう。

天正16年(1588年)に秀吉の養女(宇喜多秀家の姉)と結婚すると、その3年後に伯耆・出雲・隠岐で14万石の大名に取り立てられた。

文禄・慶長の役にも参戦。

明軍の包囲を受けた蔚山城(いさんじょう)を救援したことで、あらためて武名を轟かせている。

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いかがであろう。

ここまでの広家は、秀吉や毛利宗家からの信頼が厚く、合戦でも活躍する勇将というイメージが強いはず。

しかし、関ヶ原の戦いを機に、世間の評価は一気に変わる。

合戦当日、戦場では一歩も動かず、西軍を敗戦に追い込んだ原因ともされ、とにかく印象が悪いのだ。

なぜ広家はそんな動きをしたのか?

原因は西軍の実質的大将である石田三成にある。

石田三成/wikipediaより引用

 

 


正則・清正・長政らと親交を持ち

吉川広家は、やはり武闘派だったのであろう。

文禄・慶長の役で福島正則加藤清正、さらには黒田長政らと親交を持つようになると、逆に石田三成らを代表とする文吏派の武将については対立感情を抱くようになった。

そのため徳川家康上杉征伐に出向き、石田三成が挙兵したとき、毛利輝元が西軍につくのを止めようとしたという。

単に三成を嫌っていただけでなく、家康を相手に西軍では勝てないとも考えていたようだ。

毛利輝元の肖像画

毛利輝元/wikipediaより引用

しかし、タイミングを逸して、結局、輝元は西軍の総大将になってしまう。

広家は、そこですかさず福島正則や黒田長政らに連絡を取り、徳川への内通を約束した。

◆毛利輝元→大坂城で西軍の総大将に

◆吉川広家→正則や長政らに徳川への内通を約束

これでは西軍が勝っても負けても広家が非難されるのは必至だが、そんなことは誰から指摘されるまでもなく当人が最もわかっていたであろう。

広家の胸中にはどんな思いがあったのか?

真田家のように東西に分かれてリスクヘッジしたほうが、確実に家を残せるという指摘もあるが……兎にも角にも、迎えた慶長5年(1600年)9月15日。

関ヶ原の戦い本戦が始まる直前、東軍の背後を狙える絶好の位置に、吉川広家は陣を取っていた。

 


「宰相殿の空弁当」

吉川広家の陣取りは、毛利軍を足止めしたい東軍にとってはこれ以上ないものだった。

関ヶ原の戦い布陣

関ヶ原の戦い布陣/wikipediaより引用

背後には安国寺恵瓊・毛利秀元長束正家長宗我部盛親ら、一説には25,000ともなる大軍が控えており、広家が動かなければ全てが詰まってしまう状況である。

いざ開戦!

広家は動かなかった。

東軍との約束通り、南宮山にジッと構える。

吉川広家の軍があまりにも動かないため、背後に控えていた毛利秀元が、さらにその後ろの長束正家から「なぜ戦場へ向かわないのか?」と突っつかれる。

このとき秀元が「兵士たちに弁当を食わせている」と答えたことから生まれたのが今も有名な

「宰相殿の空弁当」

という言葉だ。

毛利秀元の肖像画

毛利元就の孫である毛利秀元/wikipediaより引用

関ヶ原の戦いはご存知の通り東軍の完勝。

広家は、戦後に「裏切り者」とも呼ばれるが、実際の動きを見るとは単純にそうとは言い難い。

毛利の家名存続のため奔走するだけでなく、自身が受け取る所領を毛利宗家に譲り、吉川家は3万石という大幅な縮小を受け入れたのだ。

それでも毛利宗家は120万石から約30万石への大減封となったので、どうしたって広家の印象は悪くなってしまうのだろう。

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吉川広家は寛永2年9月21日(1625年10月22日)に岩国で死去。

享年65。

本記事では武闘派の「勇将」という言葉を使わせていただいたが、本人は『源氏物語』や和歌を愛し、茶事については数寄屋に(茶室)の構図を自筆で描くほど。

文化芸術にも長けた人だった。

なお、吉川広家の生涯に興味を持たれた方は、以下の関連記事をご覧いただければ幸いである。

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参考文献

  • 毛利一族のすべて(別冊歴史読本 一族シリーズ)(新人物往来社, 1997年3月, ISBN-10: 4404024665 / ISBN-13: 978-4404024664)
    出版社: 新人物往来社
    Amazon: 商品ページ
  • 毛利元就のすべて 新装版(河合正治 編, 新人物往来社, 1996年11月, ISBN-10: 4404024355 / ISBN-13: 978-4404024350)
    出版社: KADOKAWA
    Amazon: 商品ページ
  • 国史大辞典(吉川弘文館, 全15巻17冊, 1979-1997年刊)
    出版社: 吉川弘文館

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編集管理人・五十嵐利休。 1998年に大学卒業後、都内の出版社に勤務。 書籍や雑誌の編集者を務め、2013年に新聞記者の友人と武将ジャパンを立ち上げた。 月間の最高アクセス数は960万PV超。 現在は企業のオウンドメディア運用やコンサルティング業務もこなしている。

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