織田信長と豊臣秀吉の肖像画

織田信長と豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣兄弟 戦国FAQ

秀吉が上杉との合戦を前に戦場を放棄! 信長に激怒された結果どうなった?

天正5年9月23日(1577年11月3日)は手取川の戦いが勃発した日である。

柴田勝家率いる織田軍が上杉謙信に完膚なきまでに叩かれた合戦として知られ、その詳細は以下に譲り、

手取川の戦い
織田軍と上杉軍が正面から激突!手取川の戦いで謙信はどこまで勝家に大勝した?

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今回、注目したいのは豊臣秀吉(羽柴秀吉)の動向だ。

実はこの戦の1ヶ月ほど前、勝家と共に戦地へ派遣されていた秀吉は勝手に持ち場を離れ、手取川の戦場を放棄するという驚くべき行動に出ていた。

当然、信長は激怒。

その結果、どんな処分がくだされたのか、振り返ってみよう。

 


北陸方面へ出陣するも勝手に撤退

合戦のあった天正5年(1577年)頃、織田家は全国各地へ勢力を拡大しているところだった。

最大の脅威だった武田信玄が元亀4年(1573年)に亡くなり、その同年に浅井長政朝倉義景を滅ぼすと、天正3年(1575年)の長篠の戦いでは武田勝頼に完勝していたのである。

余力が生まれた織田信長は、中国方面に秀吉、畿内や丹波方面へ明智光秀、そして対上杉として北陸方面へ柴田勝家を派遣した。

柴田勝家/wikipediaより引用

信玄亡き後、最も手強い敵・上杉謙信との対峙である。

当然、信長も最大限に警戒しており、天正5年(1577年)8月8日、以下のように織田家の名だたる武将を北へ向けて派兵させる。

◆柴田勝家軍
・滝川一益
・羽柴秀吉(豊臣秀吉)
・丹羽長秀
・斎藤新五
・氏家直通
・安藤守就
・稲葉一鉄
・不破光治
・前田利家
・佐々成政
・原政茂
・金森長近

『信長の野望』であれば統率力100の謙信に対し、95の勝家と91の秀吉が向かっていくような構図だが、実際の戦場はゲームのようには上手くいかないわけで。

秀吉が戦場を放棄して、無断で撤退してしまったのだった。

勝家と反りが合わないからなのか。

謙信に恐れをなしたのか。

残念ながらその詳細は不明だが、ともかく信長は激怒。

絵・富永商太

その結果を受け、信長の事績を記した『信長公記』では、秀吉のことを「進退に窮した(どうにもならない状況に陥った)」と記しているほどである。

“人たらし”としても知られる秀吉は、果たしてこの窮地をどう脱したのか?

あるいは信長はどんな罰を与えたのか?

※以下は「秀吉は人たらしか?」という考察記事です

秀吉は人たらしなのか
秀吉は“人たらし”だから天下人になれたのか 史実や逸話の考察で浮かぶ意外な姿

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処罰どころか褒美とはこれ如何に?

結論から先に言うと、秀吉に対して特段の処罰はくだされていない。

『信長公記』でも記されているように、勝家軍を派遣した直後の天正5年(1577年)8月17日、松永久秀が信貴山城に立てこもって謀反を起こすという一大事が勃発したのである。

こんな局面では、信長とて秀吉の処罰どころではなかったのであろう。

久秀に対しては織田方・松井友閑によって説得工作が進められるも効果はない。

そこで信長は、9月27日に嫡男の織田信忠を進軍させると、10月3日から激戦が始まり、その1週間後、ついに松永久秀は天守に火を放って焼死という最期を迎えたのだった。

では、その後、何らかのペナルティがあったのか?

というと、そうではない。

信長は秀吉に対して播磨への出陣を申し付けており、10月23日に出発した秀吉は、名誉挽回すべく播磨と但馬を約2ヶ月で制圧。

この働きにすっかり気を良くしたのか。

信長は秀吉に対して処罰をくだすどころか『乙御前の釜(文化遺産オンライン)』を褒美として贈っている。

豊臣秀吉イメージイラスト

絵・富永商太

実は秀吉は、宇喜多直家を攻撃したときも、勝手に和睦を結んで信長に叱責されている。

このときも特にお咎めはなく……終わり良ければ全て良しというか、結果重視というか。

信長と秀吉の性格があらわれていて非常に興味深い一件といえるだろう。

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編集管理人・五十嵐利休。 1998年に大学卒業後、都内の出版社に勤務。 書籍や雑誌の編集者を務め、2013年に新聞記者の友人と武将ジャパンを立ち上げた。 月間の最高アクセス数は960万PV超。 現在は企業のオウンドメディア運用やコンサルティング業務もこなしている。

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