絵・富永商太

織田家 信長公記

赤塚の戦い、なんだかほのぼの~戦国初心者にも超わかる信長公記10話

ときは天文二十一年(1552年)。
父・織田信秀の死によって、急遽18歳で家督を継ぐことになった織田信長。

もとより評判の良くない「うつけ」であり、当主になったからといって、家臣や周辺の領主たちがすんなり従うことはありません。
尾張統一までの信長は、親族や、信秀時代に服従した人々を相手に戦っています。

『信長公記』首巻10節は、そんな経緯で起きた争い事のひとつ「赤塚の戦い」について。
信長にとっては、家督を継いで初の戦でもありました。

 


山口親子が謀反を企てた!

キッカケは、同年、天文二十一年(1552年)4月。
鳴海城の城主・山口教継(のりつぐ)と、その息子の教吉(のりよし)が謀反を企んだことでした。

この親子は信秀に目をかけられていたのですが、やはり信長の日頃の行いに不安を感じ、「ここは今川家につこう!」と考えたようです。
まぁ、リアルタイムで言動を見知っていたら、まさか信長が日本史上で最大級の器を持つ人物だとは思えないところで……。

今川軍の手引きをするため、山口親子は行動に移りました。

まず、現在の名古屋市南区にあった「笠寺」という地名のあたりに砦を作ります。
元々あった城を修築したとも言われます。

さらに、今川方の武将を何人か引き入れました。
鳴海城は息子の教吉が預かり、父親の教継は周囲の中村などを手に入れ立てこもり、信長への反抗を明らかにします。

信長はこれに対し、800の兵を率いて那古屋城から直ちに出陣しました。

 


信長800vs山口教吉1,500

敵・山口教吉の率いる1,500人の軍勢とは“赤塚の地”でぶつかりあいました。

ここは現在も「名古屋市緑区鳴海町赤塚」として、地名がそのまま残っています。
以降は、このときの混戦ぶりについての描写が続きます。

矢を射掛け合い、互いに攻防を繰り返す……そんな流れで、信長方の落馬した人に関する記述が興味深いので、少し行数を割かせていただきます。

落馬したのは、信長の兵である荒川与十郎という人でした。
ここ以外で名前が出てこない人物ですが「金銀造りの太刀を持っていた」とも書かれているので、兵としてはかなり上等な身分だったのでしょう。

与十郎は山口方の兵に兜の目庇(まびさし)を射られ、落馬してしまいました。

目庇というのは、目を保護するための庇のような部位です。
兜の正面についていて、帽子のつばのような形をしています。

目庇はその名の通り目のすぐ近くにあるものですから、おそらく与十郎は一瞬目を閉じてしまったか何かして、馬を怯えさせてしまったのでしょう。
そしてバランスを崩し、馬から落ちてしまったのです。

 


敵味方の間で引っ張りだこ

「兜首」なんて言葉がある通り、立派な武具を身に着けた人の首は大きな手柄です。
そのため山口方の兵は与十郎に殺到しました。

しかし、そういう人を失うことは、織田方にとって大きな痛手です。

「一人二人兵がやられたくらいで、戦の勝敗まで決まらないだろ」
と思われるかもしれませんが、その場の士気を左右する可能性はありますよね。

与十郎の日頃の行いがどうだったかはわかりませんが、見知った者同士で集まって戦に参加していたとしたら、「仲間を助けなければ……」という気持ちも強く働いたことでしょう。

結果、与十郎の体は敵味方の間で引っ張りだこ(物理)みたいな状況になりました。

頭と胴と刀の鞘を織田方、すねと刀の柄を山口方で引っ張り合い、なんとか織田方が勝ったとか。
与十郎の生死について書かれていないので、なんとも判断が付きかねますが……まぁ、首を取られなかっただけでもマシですしね。

 

馬や生け捕りにした者は互いに返した

もうひとつ興味深いのが、
「迷い込んできた馬や、生け捕りにした者は互いに返した」
と書かれている点です。

戦国時代というと「なんでもアリで人情など皆無」というイメージを持っている方が多いかと思いますが、意外に人情のうかがえる話もたくさんあります。

そもそも、仕える主を選ぶときも「俺はこの殿様の人柄に惚れた!」ということを決め手にする人がほとんどでした。

現代人からすると、
「滅びそうな家にどうして仕え続けるの?」
「どう見ても欠点だらけの殿様なのに(ry」
と思ってしまうような主従関係も珍しくありませんよね。

しかし、当時は
「いくらエライ家柄でも、そんなもの何の役にも立たない。
それなら、ちょっとでも気分のいい関係でいられる主君がほしい」
という考えが主流でした。
戦国時代が人気な理由も、その辺にあるのかもしれません。

そういう価値観の時期なので、赤塚の戦いのように【旧知の間柄だった者同士の戦】の場合、敵方の馬や人質を返してやる……ということも、ままあったようです。

「それができるんならそもそも戦なんてするなよ」
なーんてツッコミたくもなりますけれど、戦が始まるかどうかは、城や地域実力者の都合ですからしゃあない。

長月 七紀・記

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link


 



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