その影響は織田氏だけでなく、周辺一帯に及びました。
肩身の狭い思いのなか元康は奮闘していた
中でも、後の歴史に大きく関わる変化が起きたのは松平氏でした。
少年時代から今川氏で人質になっていた松平元康(徳川家康)が、桶狭間の戦いを境目に、今川氏の支配を脱したからです。
桶狭間の戦いでの松平軍は、今川氏の先鋒として奮戦していました。
いや、せざるを得ない立場でした。
元康にとって実家&本拠である岡崎城は、今川氏の城代に支配され、松平氏の家臣たちは肩身の狭い思いをしていました。
しかし、義元の戦で手柄を挙げれば、場合によっては元康が岡崎城に戻れるかもしれません。
桶狭間の戦いに先立つ天文二十四年(1555年)、元康は元服し、義元の姪である築山殿を正室に迎えていましたから、既に大人扱いはされていました。
となると、あと足りないのは戦功と信頼です。
元康と松平家中にとって、桶狭間の戦いはそれらを得る絶好の機会でした。
しかし……。
義元の後を追って自害しようとまで考えながら
忠誠を示す相手であるはずの義元が討死してしまいました。
これはピンチでもあり、チャンスともいえる状況。
元康も一時は混乱し、義元の後を追って、松平氏の菩提寺・大樹寺(岡崎市)で自害しようとまで考えました。
しかし、住職に説得されて思いとどまり、今川氏からの独立を図ります。
そして後には信長と家康の間で清洲同盟が結ばれるのですが、この時点では、彼ら二人も三河と尾張の全てを支配しているわけではありません。
信長や元康の父・祖父の時代にはたびたび戦もしていますから、敵対心が残っている人達もいます。
その中で、梅ケ坪城(現・豊田市)の主・三宅氏が信長に敵対するような動きを見せます。”ケ”がない「梅坪城」と表記することもありますが、同じところです。
永禄四年(1561年)4月、信長は梅ケ坪城を攻めました。
久右衛門が弓で巧みに奮戦
合戦自体は全体的に信長方が優勢でした。
が、城方にも屈強な射手が多く、信長軍側で討死した者も少なくなかったといわれています。
そんな苦境の中でも平井久右衛門という信長軍の武士が巧みに弓で奮戦。
城方からも称賛されて矢を贈られたとか。
もちろん信長も久右衛門の活躍を認め、豹の革の大靭(矢を入れる道具)と、芦毛(あしげ)の馬を褒美として与えています。
芦毛というのは、黒い肌に白い毛が生えていて、灰色に見える馬のことです。
歳を重ねると毛色がどんどん薄くなって、白っぽくなります。
生まれたときから毛色が白い馬はかなり珍しいため、一般的に「白馬」とされる馬は、加齢で白っぽい色になった芦毛の場合も多いとか。
余談ですが、信長は芦毛の馬が好きだったようで、信長公記でもたびたび「芦毛の馬に乗っていた」とか、「芦毛の馬を参加させた」という記述が出てきます。
「連銭芦毛」という、丸く白い斑点がある毛色の馬も、若い頃の信長の描写によく出てきますね。
さらに……現在我々が「馬」といわれて真っ先に思い浮かべる茶色のものは「鹿毛」や「栗毛」と呼ばれます。
馬の毛色はパーツごとの色合いや肌の色などで厳密に決まっていて、ちょっとややこしいので、また別の機会に取り上げましょう。
一帯を攻め、麦畑を薙ぎ払って帰陣
梅ケ坪城を攻略した信長は、その後、怒涛のごとく進撃します。
高橋郡・加治屋村・伊保城・矢久佐(八草)城など、現在の豊田市一帯を攻め、麦畑を薙ぎ払って帰陣。
田んぼであれば「青田刈り」ですね。
食糧を絶つということは、長期戦も辞さないということ。
それに対抗するためには、別のところから食糧を集めてこなくてはなりません。つまり、これで三河方面の時間稼ぎができたことになります。
目下、信長の大敵は美濃の斎藤氏です。
このときの三河での戦いは、後顧の憂いを絶つためのものだったといえます。
長月 七紀・記
※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。
◆信長公記
大河ドラマ『麒麟がくる』に関連する武将たちの記事は、以下のリンク先から検索できますので、よろしければご覧ください。
麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き
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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)