1801年4月28日は、第7代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーが誕生した日です。
由緒正しいイギリス貴族。
議員の一人で、その生まれにふさわしいエリート……というぐらいで人となりの説明は終わってしまうのですが、彼が行ったことについては、今日にも繋がる部分があります。
実は、彼が議員をやっていた時代は、イギリスで労働問題が多発していた時期なのです。
その中でもアントニーは人道主義者として、労働環境改善のための法律制定に動いたり、貧民学校の設立に取り組んでいました。
では、「なぜこの時代に労働問題があったのか?」というところから見ていきましょう。
年齢一ケタの頃から週70時間以上の重労働
大ざっぱにいうと、こんな感じの背景からきています。
【19世紀イギリス 6行まとめ】
①イギリスがあっちこっちに植民地を持つ
↓
②アフリカ・西インド諸島・イギリス本土で三角貿易ができるようになる
↓
③貿易でできた資金によって、産業革命(と戦争)が促される
↓
④成人だけでは労働力が足りず、老若男女問わず長時間労働・児童労働が状態化する
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⑤勤務中の事故死や、労働環境による病気による死者が多発
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⑥政府が「やべえ何とかしないと」と(やっと)動き始める ←この一員がアントニー
さらに言うと「仕事の量に合わせて、後先考えずに労働時間を増やし続けたら、人がバタバタ死にまくってヤバイ」って感じですかね。
具体的に言いますと
・成人の労働時間が一日12時間以上
・年齢一ケタの頃から週70時間以上の労働
などが行われておりました。
当然、労働者のほうでも反発しましたが、資本家のほうが勢力が強く、なかなか改善に至りません。
アントニーのような篤志ある議員が改善に動いたおかげで、少しずつ下層階級の労働環境が良くなっていったのです。
仕事・休息・趣味8時間のスローガンができた
まず制限がかかったのは、子供や女性の超過労働が状態化していた繊維業界です。
もともと糸紡ぎや織物などは女子供の仕事とされていましたし、小柄であればあるほど機材の隙間にも入りやすいという理由で、特に子供が重宝されていました。
そのため、最初は繊維業向けに「工場法」が定められます。
1833年にまず9歳未満の子供の労働が禁じられ、9~18歳までは週69時間までの制限。
同時に、監督官の配置も義務化されています。
この工場法の対象が1867年に拡大され、繊維業だけでなく労働者50人以上の工場全てに広がり、1874年には週56時間労働制が義務付けられています。
内訳は「月~金曜は一日10時間まで+土曜は6時間まで」というもの。
また、この時代に週八時間労働制という概念も生まれました。
「仕事に8時間、休息に8時間、趣味に8時間」というスローガンが叫ばれ、工場法の制定に至ったという面もあります。
実際は多くの人が身支度や食事などで「趣味の8時間」の大部分を消費していたでしょうけれども。
こういうのはまず原則を設定するのが大事ですよね。
義務教育が国力を向上させた!?
こうして少しずつではありましたが、イギリスの労働環境は改善されていきました。
実は、これは同国の教育状況にも良い影響を及ぼしています。
工場法が改良されつつあった最中の1870年に、イギリスでは5~13歳の義務教育が始まっているのです。
確立したのは1876年頃でしたが、もしもこの頃までに「子供には労働でなく勉強をさせるべき」という考えが生まれていなければ、産業革命も中途半端なものになっていたかもしれませんね。
基本的に、より高い教育を受けた人が多いほど、国力は豊かになりますから。
戦争と教育
それをよく表しているのが、同時期のプロイセンです。
プロイセンでは1713年に5~14歳の義務教育が始まり、19世紀後半にはほぼ100%の就学率となっていました。
つまり、ナポレオン戦争をやっていた頃のプロイセンでは、少なくとも半数以上の人が義務教育を受けていたことになります。
これが最終的に巻き返せた理由の一つかもしれません。
ちなみに、フランスで義務教育が始まったのは、ナポレオン戦争から半世紀以上後の1882年。
この辺を絡めてナポレオン戦争の経過をもう一度見てみると、興味深い感じになってきます。
戦争と教育は一見関係ない――というか、相反するようにも思える要素ですが、実は密接に関わっているんですね。
なお、英国の「ブラック労働」がいかに酷かったか?
という点については、以下の記事に詳細がございますので、よろしければご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
アントニー・アシュリー=クーパー_(第7代シャフツベリ伯爵)/Wikipedia
工場法/Wikipedia
八時間労働制/Wikipedia