信長公記 三好家

信長に赦された三好康長=仇敵一族をなぜ生かしておいた? 信長公記120話

天正三年(1575年)4月6日、織田信長は京都から直接南方へ出陣しました。

石山本願寺の攻略に向け、周辺にある本願寺サイドの城と、彼らについた三好軍一派を攻略しておこうという狙いです。

この年の3月にも、細川藤孝への書状で

「この秋に石山本願寺を攻める予定なので、準備をしておくように」

と命じていますので、その足固めというところでしょう。

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前々回(118回)で攻撃を仕掛けてきた武田勝頼の対応を織田信忠に任せておいたのは、京都での政務(119回の徳政令など)と本願寺攻めの準備に集中するためだったと思われます。

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「信長公が見ていたのだから、討死も本望だろう」

この日は八幡(八幡市)に陣宿し、翌日は若江(東大阪市)まで進軍。

若江の近くには石山本願寺方の萱振城があり、これは無視しています。

信長公記』では大きく触れられていませんが、前年に萱振城を攻めて焼き払っていたため、問題視しなかったのでしょうか。

そして8日になると、まず高屋城(羽曳野市)を攻撃しました。

【地図上の拠点】
上から八幡・若江・高屋城

この日は駒ヶ谷山から信長が督戦(後方にいて自軍を奮起)していたそうで、戦には勝ち、一方で当然ながら討死した者もいます。

太田牛一はその中で伊藤二介という者に触れ、こう述べています。

「信長公が見ていたのだから、討死も本望だろう」

二介はおそらく身分の低い者だったと思われますが、何度も先駆けをし、手傷を負いながらも戦っての討死でした。

先駆けは、命懸けの働き――牛一はそこを称えるために、あえて前振りもなく彼の名を残したのかもしれません。

8日は他に誉田八幡(羽曳野市)や道明寺河原(藤井寺市)も攻略し、周辺の情勢は織田軍有利となっていきます。

 

織田軍は総勢10万ほどの大軍に

住吉へ陣を移したのが12日。
翌日は天王寺付近で畿内・美濃・尾張・近江その他多くの国からやってきた兵と合流し、総勢10万ほどの大軍になったといいます。

信長が率いていたのは1万ほどだったようですから、この時点で織田家の勢力圏がいかに広がっていたか、稼働できる軍勢がいかに膨らんでいたか、その規模の大きさがわかりますね。

大兵力をもって、織田軍は14日に大坂へ進撃すると、16日には遠里小野(おりおの・堺市)に陣を構えました。

大坂・遠里小野付近では農作物を薙ぎ払い、兵糧攻めにも着手しています。

17日にはいよいよ信長が出馬し、新堀城(にいぼりじょう)を取り巻いて攻撃を始めました。

この城については、現在、正確な位置がわかっていません。大阪市か堺市といわれているので、大きくズレることはなさそうですが……。

城方もなかなか善戦したものの、19日夜になって織田軍が一斉攻撃を始めると、ついに崩れました。城将の香西長信を生け捕って斬首とし、もう一人の大将・十河一行や、多数の敵将を討ち取って大勝を収めます。

一方、高屋城に立てこもっていた三好長慶の叔父・三好康長はこれを知って降伏を決意。

松井友閑を通してその旨を申し出てきたので、信長は康長を助命しました。

 

仇敵・三好一族ながら生かしておくメリットは大きい?

康長は反将軍・反信長派の一人で、【本圀寺の変】や【野田城・福島城の戦い】などにも参加しています。

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また、この時点では三好氏の最後の生き残りでもあります(三好三人衆については行方不明・没年不明の人もいますが)

三好三人衆

三好長逸みよしながやす
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岩成友通いわなりともみち

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つまり、三好康長は信長にとっては長年の敵。色々と思いもあったでしょうが、康長は本願寺とも親しく、生かしておいたほうがメリット大きいと考えたようです。その代わり……。
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