信長の皇位簒奪

絵・富永商太

三好家 信長公記

信長に赦された三好康長 なぜ仇敵一族は生かされたか|信長公記第120話

2020/03/17

天正三年(1575年)4月6日、織田信長は京都から直接南方へ出陣しました。

石山本願寺の攻略に向け、周辺にある本願寺サイドの城と、彼らについた三好軍一派を攻略しておこうという狙いです。

この年の3月にも、細川藤孝への書状で

「この秋に石山本願寺を攻める予定なので、準備をしておくように」

と命じていますので、その足固めというところでしょう。

細川藤孝
光秀の盟友だった細川藤孝(幽斎)の生涯~本能寺後の戦乱をどう生き延びたのか

続きを見る

前々回(118回)で攻撃を仕掛けてきた武田勝頼の対応を織田信忠に任せておいたのは、京都での政務(119回の徳政令など)と本願寺攻めの準備に集中するためだったと思われます。

武田勝頼の肖像画/父・武田信玄の跡を継いで戦国の荒波を生き、最後は悲運の滅亡に追い込まれた武田家最後の当主
武田勝頼の生涯|信玄を父に持つ悲運の後継者 侮れないその事績とは?

続きを見る

📚 『信長公記』連載まとめ

 

「信長公が見ていたのだから、討死も本望だろう」

この日は八幡(八幡市)に陣宿し、翌日は若江(東大阪市)まで進軍。

若江の近くには石山本願寺方の萱振城があり、これは無視しています。

『信長公記』では大きく触れられていませんが、前年に萱振城を攻めて焼き払っていたため、問題視しなかったのでしょうか。

そして8日になると、まず高屋城(羽曳野市)を攻撃しました。

【地図上の拠点】
上から八幡・若江・高屋城

この日は駒ヶ谷山から信長が督戦(後方にいて自軍を奮起)していたそうで、戦には勝ち、一方で当然ながら討死した者もいます。

太田牛一はその中で伊藤二介という者に触れ、こう述べています。

「信長公が見ていたのだから、討死も本望だろう」

二介はおそらく身分の低い者だったと思われますが、何度も先駆けをし、手傷を負いながらも戦っての討死でした。

先駆けは、命懸けの働き――牛一はそこを称えるために、あえて前振りもなく彼の名を残したのかもしれません。

8日は他に誉田八幡(羽曳野市)や道明寺河原(藤井寺市)も攻略し、周辺の情勢は織田軍有利となっていきます。

 


織田軍は総勢10万ほどの大軍に

住吉へ陣を移したのが12日。
翌日は天王寺付近で畿内・美濃・尾張・近江その他多くの国からやってきた兵と合流し、総勢10万ほどの大軍になったといいます。

信長が率いていたのは1万ほどだったようですから、この時点で織田家の勢力圏がいかに広がっていたか、稼働できる軍勢がいかに膨らんでいたか、その規模の大きさがわかりますね。

大兵力をもって、織田軍は14日に大坂へ進撃すると、16日には遠里小野(おりおの・堺市)に陣を構えました。

大坂・遠里小野付近では農作物を薙ぎ払い、兵糧攻めにも着手しています。

17日にはいよいよ信長が出馬し、新堀城(にいぼりじょう)を取り巻いて攻撃を始めました。

この城については、現在、正確な位置がわかっていません。大阪市か堺市といわれているので、大きくズレることはなさそうですが……。

城方もなかなか善戦したものの、19日夜になって織田軍が一斉攻撃を始めると、ついに崩れました。城将の香西長信を生け捕って斬首とし、もう一人の大将・十河一行や、多数の敵将を討ち取って大勝を収めます。

一方、高屋城に立てこもっていた三好長慶の叔父・三好康長はこれを知って降伏を決意。

松井友閑を通してその旨を申し出てきたので、信長は康長を助命しました。

 

仇敵・三好一族ながら生かしておくメリットは大きい?

康長は反将軍・反信長派の一人で、【本圀寺の変】や【野田城・福島城の戦い】などにも参加しています。

本圀寺の変
本圀寺の変|将軍就任直後の足利義昭が襲撃された 信長公記第56~57話

続きを見る

野田城・福島城の戦い(第一次石山合戦)|信長公記第73話

続きを見る

また、この時点では三好氏の最後の生き残りでもあります(三好三人衆については行方不明・没年不明の人もいますが)

三好三人衆

三好長逸みよしながやす
三好宗渭みよしそうい
岩成友通いわなりともみち

つまり、三好康長は信長にとっては長年の敵。色々と思いもあったでしょうが、康長は本願寺とも親しく、生かしておいたほうがメリット大きいと考えたようです。その代わり……。

織田信長は、高屋城を含めた河内国内の敵城を全て破壊させました。

康長はこれ以降、真面目に織田家臣の一員として働き、【本能寺の変】後は豊臣秀吉に仕えています。

没年は不明ながら、うまく生き残ったといえるでしょう。

 

岐阜へ帰還 武田との一戦に備える?

そのまま、石山本願寺攻囲にかかることもできたかもしれません。

しかし信長はここで引き返し、4月21日に京都へ戻って政務処理にあたっています。

おそらくは、武田軍の動きを気にしたのでしょう。もし大坂に長居していれば、いざというとき武田軍が侵攻してくるであろう三河&遠江エリアとは距離が離れすぎています。

全力で武田軍にあたるため、ギリギリまで京都での政務をこなし、一度岐阜に戻って体勢を整えようとしたのではないでしょうか。

27日には京都を出発。

坂本~佐和山間を明智光秀の船で渡る予定でしたが、風のため途中の常楽寺へ上陸しました。

明智光秀
明智光秀の生涯|ドラマのような生涯を駆け抜けたのか?謎多き一生を振り返る

続きを見る

そこから陸路で佐和山へ行き、28日の朝8時頃に岐阜へ到着しています。

『信長公記』ではここから半月ほどが経過。

そして次は、いよいよ有名なアノ戦のお話です。

📚 『信長公記』連載まとめ

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


あわせて読みたい関連記事

織田信長
織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る

続きを見る

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
『信長と消えた家臣たち』(→amazon
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
『戦国武将合戦事典』(→amazon

TOPページへ


 

リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-三好家, 信長公記

目次