信長の皇位簒奪

絵・富永商太

信長公記 三好家

信長に赦された三好康長=仇敵一族をなぜ生かしておいた? 信長公記120話

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織田信長は、高屋城を含めた河内国内の敵城を全て破壊させました。

康長はこれ以降、真面目に織田家臣の一員として働き、【本能寺の変】後は豊臣秀吉に仕えています。

没年は不明ながら、うまく生き残ったといえるでしょう。

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岐阜へ帰還 武田との一戦に備える?

そのまま、石山本願寺攻囲にかかることもできたかもしれません。

しかし信長はここで引き返し、4月21日に京都へ戻って政務処理にあたっています。

おそらくは、武田軍の動きを気にしたのでしょう。もし大坂に長居していれば、いざというとき武田軍が侵攻してくるであろう三河&遠江エリアとは距離が離れすぎています。

全力で武田軍にあたるため、ギリギリまで京都での政務をこなし、一度岐阜に戻って体勢を整えようとしたのではないでしょうか。

27日には京都を出発。
坂本~佐和山間を明智光秀の船で渡る予定でしたが、風のため途中の常楽寺へ上陸しました。

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そこから陸路で佐和山へ行き、28日の朝8時頃に岐阜へ到着しています。

『信長公記』ではここから半月ほどが経過。

そして次は、いよいよ有名なアノ戦のお話です。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
『信長と消えた家臣たち』(→amazon
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
『戦国武将合戦事典』(→amazon


 



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