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【ドラマ大奥シーズン1の時代背景】
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ありのままに生きてもいい
そんな綱吉は、一人娘であった松姫を亡くすことで、深い悲しみに落ちてゆきます。
右衛門佐は、そこで孔孟の教えでもなく、老荘の教えを読ませるようになる。
老荘の教えとは、道教の経典にもなりました。
国家の規範となり、人々を導く道徳規範とは異なり、自由を求める心を勇気付ける教えです。
儒教道徳は中国の歴史を縛ってきましたが、同時にそこから抜け出したい人々の求める思想として、老荘の教えがあったのです。
世継ぎを残せぬと嘆く綱吉に、生きることの意味を教える右衛門佐。
二人が老荘思想にたどり着いたのは、思想史からみても当然のことと言えました。
老荘思想は、中国の思想の中でも屈指の優しさがあります。
なんとなく疲れた――そんな時にあるがままの姿を肯定し、自分にも周囲にも優しくなれる教えです。
その境地に辿り着けた綱吉と右衛門佐は幸せでした。
綱吉は自分を過小評価している?
毒親である父・桂昌院に苦しめられ、引きずられるように生きていた綱吉。
綱吉の悪政代表とされてきた【生類憐れみの令】――しかし、これは日本人の道徳観を変えた側面もあります。
それまでは死の穢れをおそれるあまり、死にかけた人々を放置し、追い出すことすらあった日本。そうした行為を取り締まり、生命倫理を向上させた側面もあったのです。
人々が血を見ることすら嫌になれば、乱世に戻ることは遠ざかります。
それなのに、自分は何も成し遂げられないと嘆いた綱吉は、かなり生真面目な性格です。理想像が高すぎたのでしょう。
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綱吉は、時代が爛熟した結果、理想が追い付かない悲劇がありました。
女の自分でも学ことはできるし、教養は褒められる。それと同時に女子力、それに子作りも強制される……そうあまりに重い要求に心が折れてしまった綱吉は、現代的な女性ともいえます。
◆綱吉編まとめ
毒となる:桂昌院。綱吉を女としてだけみて、学問にいい顔はしない。子を産むことばかりを要求し、娘の悩みを聞こうとしない
側近:柳沢吉保。深い情愛と忠義が一体となった、武士道の体現者。溢れる知性も主君と共通している
綱吉の女性としての悩み:低い自己評価と、高すぎる目標。自己決定権の欠如。父の束縛を解くことで癒される
最愛の人であり大奥総取締:右衛門佐。ありのままに生きることを教え、伝える
吉宗編:東洋近世国家の頂点へ
どこか苦い結末を迎えた家光編と綱吉編に対し、吉宗編は爽快感とコメディタッチの描き方も発揮されます。
実際に吉宗時代は、日本史の近世が完成した時代ともいえます。
倫理観、教養、センスが庶民まで行き渡り、日本という国の形が固まったとも言えるのです。
しかし、ひとつの時代の完成と、次の時代への始まりは同時並行して起こります。
武士の誇りを取り戻す
今一度振り返りまして、【生類憐れみの令】は、なぜあれほど評判が悪いのか?
実は、武士の尊厳の問題でもあります。
単にコストがかかるだけでなく、犬を追いかけて捕まえる武士が町人から笑われるとなれば、彼らのプライドは大きく傷つきます。
特権である鷹狩りを禁じたことも、武士にとっては面白くない話。
吉宗は、綱吉時代には途絶えた鷹狩りを復活させ、家重のこともたびたび誘いました。
このことには、実は矛盾点があります。鷹狩りには莫大な費用がかかるのです。
「御巣鷹山」という地名があります。
日航機墜落事故のあった群馬県だけでなく、当時は鷹狩りに使う巣があった山をさしました。
倹約第一の吉宗が、このように莫大な金がかかる贅沢なことを復活させたのです。
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これは彼なりの心身を鍛えたいという、武士としての誇りがそうさせていました。
家康回帰をめざす吉宗にとって、綱吉らの【文治主義】は生ぬるく思えたのです。
ドラマでは吉宗が颯爽と馬に跨り、浜辺を駆け抜けていましたが、武勇復活をめざす彼女らしい姿といえるでしょう。
民にまで儒教を浸透させる
綱吉は、孔孟の教えを学問として学び、概念を取り入れていました。
一方で吉宗は、実学志向の人物です。
だからこそドラマでは、娘である徳川宗武が杜甫『絶句』をスラスラと暗唱した場面で「自分では覚えられない」とあっけらかんとしていた。
詩としての素晴らしさはわかるけれども、そんなものを覚えても役には立たないと消極的なのです。
これは吉宗政治の特徴を示しているともいえます。
綱吉が学問として極める一方、吉宗は民衆に至るまで浸透させることを目指しました。
吉宗の時代に「孝子長五郎」という人物がおります。
彼の功績は「実に親孝行」だったことで、母への様子が評判となり、代官の耳にも入ると、大岡忠相を通して吉宗の耳にまで入り、大々的に顕彰されたのです。
米や反物を賜り、さらに年貢まで免除されたのですから、大したことです。
今でも彼の顕彰碑や墓は残されています。
◆ 孝子長五郎(こうしちょうごろう)の墓(→link)
反対に、親を虐待しているような不届ものは、罰を与えられます。
学問として極めるのではなく、民衆にも広め、社会規範を向上させることが、吉宗の【享保の改革】の意義でした。
こうした政策には、前例があります。
明では「里甲制」により、民衆が統治されていました。そんな民衆に対し、洪武帝は「六諭」を布告します。
・父母に孝行を尽くしましょう
・年長者は尊敬しましょう
・近所の人とは仲良くしましょう
・子孫は教え、導きましょう
・自分の仕事をがんばりましょう
・非行をしてはなりません
単純明快な倫理であり、民衆にも根付いてゆきました。
清代では康熙帝が「聖諭広訓」を発布します。これも儒教道徳を説くものです。月に2度読み上げられ、民衆に浸透する。
時は流れ、海を越え、享保4年(1719年)――吉宗は「六諭」の解説書である『六諭衍義』を目にします。薩摩藩主・島津吉貴から献上されたものです。
薩摩藩と接する琉球では、この時点で既に『六諭衍義』が普及しておりました。
吉宗はブレーンにこの本を託します。室鳩巣が和訳し、『六諭衍義大意』となる。荻生徂徠に訓訳(書き下し)をさせる。
そして江戸町奉行の大岡忠相が、江戸の著名な手習師匠たちに与える。
こうして寺子屋でも『六諭衍義大意』を習うこととなったのです。
江戸っ子たちは、堅苦しい儒学者や師匠を川柳でからかいながらも、儒学に親しんでゆきました。
それだけに江戸時代の刑罰や制度は、儒教規範が反映されています。
同じ殺人でも、親殺しや主人殺しの方が重くなる。仇討ちも、目上の人でなければ公式に認められない。子が親の仇討ちをするのはよろしくとも、親が子の仇討ちをすることは認められないのです。
この儒教規範は、江戸時代が終わったからといって、人々の生活から抜けるはずもありません。
『教育勅語』の狙いとして、西洋道徳の影響で影が薄れた儒教規範の再浸透がありましたが、その際、明清まで遡り、こうした書籍を参照しました。
親殺しが厳罰とされなくなるのは、昭和48年(1973年)の「尊属殺重罰規定違憲判決」まで待たねばならない。
統治を円滑にするための儒教規範は、吉宗によって根付きます。
教養を重視する流れはこのあとも続き、徳川家重の代にあたる宝暦年間からは日本全国において藩校が創建されてゆきました。
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