生類憐れみの令

徳川綱吉/wikipediaより引用

江戸時代

生類憐れみの令は日本人に必要だった?倫理観を正した“悪法”に新たな評価で考察

徳川綱吉といえば、真っ先に思い浮かぶのが【生類憐れみの令】と、それに由来する「犬公方」というあだ名でしょう。

お犬様が大事、時には人より優先だ――。

と、まるで綱吉の気が触れたかのように悪く言われがちですが、最近は、悪法どころか日本人の倫理観を良い方向へ進めたのでは?という再検証も進んでいます。

同法令は複数回にわたって出され、最初が貞享2年(1685年)7月14日とする考え方が定説。

本稿では、これまでとは違う角度から「生類憐れみの令」を考え、その実態に迫ってみたいと思います。

※以下は徳川綱吉の考察記事となります

徳川綱吉
徳川綱吉は犬公方というより名君では?暴力排除で倫理を広めた人格者

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命が軽かった時代の名残

殺し合いが日常で、敵地の作物を強奪したり、人身売買も横行していた戦国時代。

人心は荒廃し、命も極めて軽いものでした。

では江戸期はどうか?

徳川家康から数えて五代目・綱吉の時代ともなれば、たしかに戦国は過去のものです。

しかし、武士階級をはじめ人々の心には、依然としてその余韻が燻っておりました。

鎖国のために、訪日を許された数少ない外国人も、そうした残酷さを目撃するたびに、恐れ慄いたと伝わります。

例えば『葉隠』のような武士の規範は、節義を通すためならば人の命を軽んじることこそ美しい、とみなされておりました。そんな彼らに滔々と命の大切さを説いても、あまり効果はありません。

さらには一般社会においても、捨て子や間引きはよく見られる現象でした。

新生児の首に母親が足首を乗せて殺してしまう。

そんな間引きの様子を目撃した外国人たちは、驚きをもって記録。堕胎も、特に都市圏においては深刻な問題でした。

そして日本には古来より「死の穢れ」を嫌う風習があり、それが時に彼らの性質を酷薄にしました。

一例を挙げますと、旅先の宿で重病人が出ると、宿の主はその人を屋外に放置して、死ぬに任せてしまうのです。

これには他の客が「病」に感染することを防ぐという意味もありましたが、そもそも「死の穢れ」を自宅で発生させたくない――そんな意図があったのですね。

当時の人にとって、病人を救うことよりも、まずは自宅で死者を出さないこと(死の穢れ)の方が優先事項。

こうした結果、往来には動物だけでなく、人の死体もゴロゴロと投げ捨てられておりました。

 


理念はすばらしい「生類憐れみの令」

なんと無情な世の中でしょう。

太平の世と言われる江戸時代も、現代の倫理観からは考えられない殺伐としたものでした。

そんな世の中を、慈悲の光で照らしたい――そう考えたのが、実は徳川綱吉と言えます。

綱吉は、命が軽んじられた世の中を、自分の治世で変えたいと願いました。

【生類憐れみの令】の理念は、実は素晴らしいものです。

同法令は、一つの法律として一回で出されたものではなく、複数回に分けて発布されたものですが、主な中身だけを抽出してみますと……。

・旅行中の人および動物が、慈悲深い扱いを受けるようにすること

→このおかげで、旅人が宿から放置されて死を待つようなことはなくなりました

・馬の筋繊維の切除禁止

→当時は馬の乗り心地をよくするため、馬の筋繊維に切れ込みを入れることがありました

鷹狩の廃止

→狩りによる殺生を禁じるためだけではなく、鷹の餌となる犬の保護を目的としました。

鷹狩
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他にも以下のようなものがありました。

・囚人の境遇を改善すること

・捨て子や堕胎の禁止

・動物遺棄の禁止

・動物に芸を仕込んで金を稼ぐことを禁止

・食用動物の生体販売禁止

それまでの為政者では発想しなかった(できなかった)、先進的で素晴らしい中身とも言えるものです。

彼は動物福祉の概念を先取りしていたのでした。

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