藤原惟規

こちらの画像はイメージです/『紫式部日記絵巻』/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

藤原惟規(紫式部の弟)は実際どれほど出世できた?本当はモテる男だったのか

優秀なきょうだいを持つと、何かと比較されて大変だったりしません?

例えば、源頼朝の弟でも、ド派手な義経と比較して地味だとされがちな源範頼とか。

本当は十分に優秀なのに、兄・島津斉彬と比較されて愚弟扱いされる島津久光など。

同性同士の比較が多くなりがちですが、姉と比較されて嘆かれてしまうのが大河ドラマ『光る君へ』にも登場し、ほっこりキャラとして和みをくれた藤原惟規(のぶのり/これのぶ)です。

あの“紫式部の弟”であり、ドラマでは高杉真宙さんが演じ、公式サイトではこんな風に説明されていました。

まひろ(紫式部)の弟で、幼名は太郎。

勉学が苦手で、文学の才がある姉としょっちゅう比較されている。

のんびり、ひょうひょうとした性格。

確かに飄々としてドラマでは終始憎めないキャラでしたね。

しかし史実では実際どんな人物だったのか?

寛弘5年12月30日(1009年1月28日)は内裏に盗賊が入った日――このとき、紫式部が「兵部の丞(ひょうぶのじょう)という蔵人を呼んで!」と伝えたところ、「すでに帰ってしまいました」というエピソードが『紫式部日記』に書かれまして。

そう、兵部の丞とは当時の藤原惟規でして……何とも間の悪い様子が描かれた“弟”の生涯を振り返ってみましょう。

 


父も姉も優秀な頭脳を持っていた

藤原惟規は、実に不運な脇役として歴史に登場します。

父は藤原為時

母は藤原為信の娘。

前述の通り、両親ともに姉の紫式部と同じなのですから比較されても仕方ない。

生まれは、彼女の2歳から4歳下、天延2年(974年)辺りと見なされ、ドラマでも描かれていたように父の為時は優秀な漢文学者でした。

当時の漢文といえば、文明の最先端たる北宋から伝わってきたもの。

為時は十代半ばという若さで大学に入り、漢籍を学び始め、菅原文時(すがわらのふみとき)に師事した秀才です。

菅原文時/wikipediaより引用

それが二十歳ごろに妻を迎え、娘(紫式部)と息子(藤原惟規)が生まれた。

きょうだいの母は程なくして亡くなり、父・為時は別の女性を妻として迎えますが、惟規のことをこう考えました。

「私が学んだことを教え、学問の道を極めさせよう!」

教育熱心な父親でした。

源氏物語』の主役である光源氏は、トップクラスのエリート貴公子です。

にも関わらず、我が子・夕霧に対し厳しい教育方針を見せ、周囲から驚かれています。為時の娘である紫式部が、自分の父親像を反映させたのかもしれません。

 


「ああ、この娘が男であれば……」

父の藤原為時は学問により出世を遂げています。

儒者として認められ、花山天皇に漢詩文を教えていた。

花山天皇/wikipediaより引用

となれば我が子も漢籍に詳しくなければ恥ずかしく、熱心に漢籍を教えようとするのですが、いくら音読して覚えさせようとしても、我が子はすぐに忘れてしまう。

しかし、横で聞いていた姉がスラスラと覚えてしまった。

「あぁ、この娘が男であれば……」

為時はしみじみと、そう嘆いた――という逸話からは紫式部の優秀さのみならず、教育環境の良さもわかります。

父がいて、弟がいる。その弟に教えようと父が漢籍を読み上げたからこそ、紫式部には染み込むように知識が流れ込んでいったのです。

なぜ、こんな家庭の話が残っているのか?

というと、この優秀な姉が『紫式部日記』を残し、そこに記載していたからなんですね。

日記では「式部丞」と記されている残念な少年が惟規であるとされています。

『光る君』では「太郎」という幼名で出ていて、長男としてはごくごく普通の名前ですね。

紫式部には異母弟に藤原惟通(のぶみち)・藤原定暹(じょうせん)がいましたが、彼らは母が違うせいか、そこまで親しくはなかったようです。

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