「善人」が「悪人にされてしまう」というのは講談ではお決まりのパターン。
しかし、中には逆のケースもあります。
本来なら悪い行いが、善いこととされるパターンですね。
天保三年(1832年)8月19日に処刑された鼠小僧次郎吉もその一人でないでしょうか。
『ゲゲゲの鬼太郎』に登場するネズミ男じゃなくて、盗賊のほうのネズミで小僧です。
平たく言えば泥棒なんですけど、その割には生い立ちなどがシッカリ残されている珍しい罪人です。
まぁ、自白調書の記録が残されていたことから現代にも名前が通じるんですね。
本稿で簡潔に振り返ってみましょう。
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自白調書で生い立ちが分かるが同情までは……
現在の日本橋人形町に生まれた鼠小僧は、当時は商家の子供としてごく一般的な生活をしていました。
すなわち、他家への奉公です。
鼠小僧が行った先は、木でいろいろな物を作る木具職人の家でした。
が、あまり向いていなかったのか、16歳で親元に戻り、次にとび職になります。
そこでも真面目に働いていたとは言いがたいようで……25歳で父親から勘当をくらい、生活に困った結果、盗みの道に入ってしまったのだとか。
生まれたときから将来を絶望させられるような境遇だったらいざしらず、就職に二度失敗したくらいで犯罪者になるとは、現代人からすると「???」ってなりますよね。
天誅か、儲かる場所に入っただけか?
文政六年(1823年)あたりから、武家屋敷だけをターゲットに盗みを働いていたようです。
”義賊”として庶民からの人気が高かったのは、ただ単に「庶民から盗らなかった」からというのが大きいようで。
天保年間といえば、幕府は改革やら何やらでてんてこ舞い――気候的にも天保の大飢饉(鼠小僧処刑の翌年から)に向かう頃で、たとえ庶民の家に押し入ったとしてもロクな収穫はなかったでしょう。
一度か二度、庶民の家に忍び込んだものの、めぼしい金品がなくそのまま立ち去ったなんてこともあったかもしれません。
民衆は、それでも夢を見たがるもの。
鼠小僧の事情よりも「いけ好かない武士へ俺たちに代わって天誅を下しているんだ!」と思い込み、それがエスカレートして義賊扱いされ、さらには講談でこのイメージが固定化されたというところでしょうか。
もともとは松浦静山の『甲子夜話』に収められた話で
・身軽で機敏
・人を傷つけず金銀のみを盗む
・人道的である
という特徴だったとか。
更には盗んだ後に「鼠小僧御能拝見」と記した上を残していったとあり、それがいつしか「盗んだ金を貧乏人にばら撒いた」なんて話へと発展したというのですが、こうした逸話は何の根拠もない話でした。
一度捕まったあとも盗みをやめられず
実は武家屋敷に忍び込むようになって二年ほどで一度捕まっています。
そのときは「ついうっかりものの弾みでやっちまったんですお許しくだせぇ」(※イメージです)とあたかも初犯であるかのように嘘をついて逃れたのだとか。
それでも罪人の印として刺青を入れられています。
当時の一般的な刑罰で、入れる場所は腕だったりおでこだったり、地方や罪の種類によって違ったようです。
鼠小僧の場合はこの後もう一回捕まって処刑されていますので、たぶん腕でしょうね。
腕なら着物で隠せますが、おでこだったら隠しようがないですし。
そんな感じで一度は言い逃れた鼠小僧、一旦上方へ逃れたものの、盗みをやめることはありませんでした。
ほとぼりが冷めるのを待って再び江戸に舞い戻り、今度は七年かけて90回も江戸のあちこちにある武家屋敷へ忍び込んでいます。
結局とっ捕まり、そのときもやはり武家屋敷でした。
上野小幡藩の松平忠恵というお殿様とばったり出くわしてしまい、お縄になったとのことです。
夜中に曲者と鉢合わせしたら仰天しそうなものですが、流石に由緒正しいお家のお殿様は違いますね。
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