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女性が“十二単”を身につけ華麗に装う時代
『光る君へ』の制作が発表された時、大河ドラマは戦国幕末作品が中心であることから、取材する側から困惑が広がったとされます。
他ならぬ脚本家の大石静さんも石田三成をドラマにしたかったのに、『光る君へ』のオファーを受けて驚いたのだとか。
そんな困惑もある一方、華麗な十二単が見られることに期待した方もいたことでしょう。
今や平安時代といえば思い浮かぶ衣装の筆頭である十二単。
『源氏物語絵巻』はじめ数多くの作品で描かれ、イメージが強固たるものとしてありますよね。百人一首のカルタ札でもおなじみです。
しかし、改めて見てみると、極めて非効率的、非能動的であり、女性の動きを拘束するものであることがわかります。
不必要なまでに分厚く、脱ぐのも動くのも時間がかかる。
なんせ重いものは20キロはあるとされています。
よくよく考えてみれば、あの衣装は華麗なだけでなく、不自由で女性の地位低下を意味するものであることもわかります。
長い髪もそうでしょう。あれだけの長さとなれば動きは制限されますし、洗髪しようと思えば、わざわざ休暇を取らねばならぬほど大変なものでした。
男女ともに動き回らなければならない時代、服装は当然のことながら軽やかなものとなります。
しかし人間が財産を蓄え、階級が生まれるようになると、動かなくともよい特権階級が生じてきます。
男性は官僚として働かねばならないけれど、時代がくだって文明が成熟すると、家の奥にいる女性は、男性を楽しませ、子を産み育てるだけの存在となってゆきました。
華麗な衣装は女性を縛るものでもあった
平安時代中期は、紫式部と清少納言という、日本史の教科書でもおなじみの女性がいる時代です。
女性も発言権があったし、文字を書き、教養を高めることができた――そんな時代に思えるかもしれません。
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確かにこの頃はまだ儒教規範が浸透しておらず、江戸時代と比較すれば性的規範は自由であり、離婚も、恋愛も、ハードルが低い時代ではありました。
百人一首にも、女性の歌が並んでいます。
しかし、果たして現実はどうか?
紫式部と清少納言はあくまで文学者として名を残したのであり、政治力はありません。伝えられたのは女房としての名前であり、本名すら不明です。
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平安時代のイメージは、十二単を身につけた女性たちのイメージで固まっています。
しかし、その前の時代も長く続いています。
百人一首の古い絵札では、推古天皇すら十二単を身につけているものがありますが、そうではありません。
もっと活動的で、中国に近い衣装を身につけていました。髪も結い上げていたのです。女性官僚もいて、政治的な権限もありました。
額田王(ぬかたのおおきみ)を描いた画像がイメージしやすいかと思われます。
髪を結い、簪をさし、アクセサリを身につけたこの時代ならば、こうした装身具もお宝とされていたことでしょう。
しかし、「襲」(かさね)でセンスを競う平安時代中期となると、金がかかっているものはともかく衣装であり、最高級品ともなれば海を超えたものもあります。
中国産の絹に、輸入した染料を用いた布地は、庶民が一生目にすることもない華麗なものでした。
『光る君へ』の時代は、女性の地位が低下し、飾り立てる存在となる時代だったのです。
外戚政治が確たるものとなり、有力貴族たちは自分の娘を入内させ、天皇の寵愛を受けるように仕向けることが政争だと認識。
美しい娘を育て、その周りにかしずく女房も飾り立てねばならない。
衣装はどんどん重ねられて、その「襲」(かさね)を御簾や牛車からのぞかせることで、美的センスを見せつけました。
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