王陽明像/wikipediaより引用

中国

出る天才(王陽明)は打たれる――そして僻地で陽明学が生まれる

成化八年(日本では室町時代・文明四年・1472年)9月30日は、「陽明学」を生んだ王陽明の誕生日です。

学問を生み出した人ですから、当然文官だと思いますよね?

ところがどっこい、彼は文官ではありません。
正確には、文官「だけ」ではなく、いわゆる文武両道タイプというやつです。

この時点でドえらい頭脳の持ち主な予感がしますが、どんな人だったのか早速見ていきましょう。

 

28才の若さ、三度目の挑戦で科挙に合格!

王陽明の父親も、実は超絶秀才でした。
王華という人で、官僚試験の【科挙】に主席で合格するほどの頭脳の持ち主だったのです。

ちなみにトーチャンもかつて苦労しており、日本でいうところの「勧進帳」みたいな経緯で難を逃れたことがあります。やっぱり苦労すると頭を使うようになるんでしょうか。

トーチャンはそのうちお偉いさんに認められて武官になる一方で、若い頃の苦労を忘れていなかったせいか、息子にも様々な学問をやらせます。

そのため、王陽明は仏教や詩文だけでなく、武芸や儒学、朱子学といった当時広まっていた学問のほぼ全てを学んでいます。

彼が科挙に合格したのは3回目の受験時。
それでも28歳だったというから驚きです。

科挙合格者の平均年齢はだいたい36歳ぐらいといわれています。中には今でいう前期高齢者の歳になって、やっと合格した人もいるくらいです。

それに二代続けて合格しているのですから、やはり頭のデキは血筋の影響が否めないんでしょうね……。

 

僻地に飛ばされても研究に没頭する根っからの学者肌

科挙に合格した王陽明は、理由は不明ながら
「科挙に合格したら地方の行政もやらなくてはいかん。それには兵法が必要だ!」
と考えました。何がどうしてそうなった。

それだけやる気のある秀才だと、やっかみを買いやすいのもまた事実。

あるとき「今のお偉いさんのやり方は間違っています! 陛下、どうかお考え直しください!」(超訳)と上奏したところ、逆に左遷されてしまいました。

飛ばされた先は、現代の地名だと中国中南部の貴州省というところで、昔から漢民族以外の民族がたくさん入り混じっていました。

つまり、中央政府からすれば僻地も僻地であり、
「うっとうしいヤツはあそこへ送り込んで、自分から仕事を辞めたくなるようにしてやれケケケ」(※イメージです)
といった扱いの場所だったのです。

しかし、根っからの学者肌である王陽明は、異郷の地であってもめげません。
決して豊かではない生活の中、ここで思索を重ねることにより、あの「陽明学」を生み出したのです。

ちなみに「陽明学」は日本で明治以降に広まった呼び名で、元々は「王学」と呼んでいたそうですが、わかりやすいほうで統一しますね。
どちらにしろ、学問の一系統に自分の名前をつけるあたり、彼がこの考えに相当の自信を持っていたことがうかがえます。

 

朱子学では疎まれていた「欲」を取り込んだ

上記の通り、王陽明もかつては朱子学を学んでいました。
しかし、自分なりに辺境の地で考えてみた結果、どうにも納得できない部分が出てきます。

朱子学では「人間には善良な気持ちと感情が両方備わっているけれども、感情は欲に繋がるから好ましくない」(意訳)という考え方があります。

これに対し王陽明は「いやいや、天から授かっているからには、人間の心そのものが理にかなったものだ」と考えました。

王陽明はそうした違和感をまとめて、短い標語をいくつか作りました。

一番有名なのは
【知行合一】
ですね。

ちょっと難しい話ですが「知る」を「見る」と考えるとわかりやすいかもしれません。
ものを見て知覚するのは、そもそもそれを好ましいと感じたからであり、人間は感情と動作を常に同時に行っているのだということです。

もうちょっとわかりやすい例で言うと、
「お腹がすいているときにステーキの焼ける香りがしてきて、よりお腹がすくのは、そもそも”食事をしたい”と思っていたからだ」
という感じでしょうか。

現代人からすると
「当たり前じゃん」
「ややこしいだけじゃね?」
「こまけえこたあいいんだよ!」
と言いたくなってしまいますが、知行合一は朱子学で好ましくないとされていた「欲」を、ごく自然なことであると認めているところに意味があります。

当時の中国では「聖人」=「人格者」は欲を排除した存在であると認識されていました。

しかし、陽明学ではそもそも欲を悪いものとは考えないので、聖人は特別な存在ではないのです。

「万街これ聖人」=「街にいるどの人も聖人である」という表現もあります。

 

「どんなにエラい人が書いた本であっても従う必要はない」

また、聖人になるために欠かせないとされていた過去の書物についても、王陽明は「自分の心が納得できないのであれば、どんなにエラい人が書いた本であっても従う必要はない」とバッサリ!

王陽明自身が上記の通り「上司がやってることでも間違ってると思ったので、改善すべきだとツッコんだ」という人ですから、ただ盲目的に従うということ自体に違和感を覚えていたんでしょうね。

そうして人々の理解を取り付け始めたころ、中央政府ではかつて王陽明に「あの上司ダメじゃね?」と言われていた当人がクビになりました。

そして王陽明はあっちこっちで重職を任されるようになり、度々農民や地方領主の反乱を鎮圧することに成功します。

ただ単に力で押さえつけるばかりではなく、民の慰撫にもつとめ、剛柔を使い分けたことがよかったのでしょう。

この手の仕事を三回行ったため、俗に「三征」と呼ばれているのですが、三回目のときに王陽明は体を壊してしまいました。
既に50代半ばになっていたので、当時の感覚としては老人だったでしょうしね。

しかし、それまでうまく鎮圧を行ってた彼を、皇帝はなかなか休ませてくれませんでした。

時代が前後しますが、豊臣秀長といい、「超優秀な部下ひとりに頼り切るとどうなるか」という想像をしてくれないんですよね、政治のトップって(´・ω・`)

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日本では大塩平八郎が強く影響を

許可を待ちきれなかった王陽明は独断で故郷へ帰り、療養しようと出発しました。

が、時既に遅し。
病が重くなり、乗っていた船の中で客死してしまったそうです。

学問の上でも政治的な意味でも、惜しまれたことでしょう。

しかし、陽明学は多くの人に賛同を得て、中国だけでなく日本でも大きく影響を受けた人がたくさんいました。

有名どころだと、大塩平八郎とか。

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「お上やマニュアルに盲目的に従ってたらいかんよ」という考え方は、現代にも充分通じますよね。

もっとも、ただ反発するだけだと単なるへそ曲がりですので、きちんと代案や自分なりの意見を持つことのほうが大切です。

知行合一に合わせていうのであれば、「反対するからには何かしらの主張があるはずだから、それをきちんとまとめろ」ということになりますかね。
もっと極端なことをいえば「反対だけならサルでもできる(だから自分の意見を言え)」みたいな感じでしょうか。

例によって超訳してますので、朱子学との違いやもっと詳しいことは各自書物などをお調べください。特に受験生はくれぐれも鵜呑みにしないようにお願いいたします。

長月 七紀・記

【参考】
王陽明/Wikipedia
陽明学/Wikipedia

 

 



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