信長の皇位簒奪

絵・富永商太

信長公記 皇室・公家

信長、内裏を修理したってよ!超わかる信長公記80話

比叡山焼き討ちという、前代未聞の軍事行動を起こした織田信長

さぞかし、その後も恐ろしい所業を続けたのだろう――と思いきや、全く逆の善行もしています。

このタイミングで、永禄十二年(1569年)から取り掛かっていた【内裏の修繕】が完了したのでした。

 


戦乱で荒れ果てた内裏の修繕

内裏とは言わずもがな皇居のこと。
戦乱で荒れ果て、朝廷自らではままらなかった建物の修復を信長が手掛けていたのです。

『信長公記』では、その例として以下のような建物を挙げています。

【紫宸殿】
即位の礼など、朝廷の主要な行事を行う儀式場
有名な「左近の桜・右近の橘」はここの前に植えられている

【清涼殿】
天皇が日常の政務・生活をするところ

【内侍所】
賢所(かしこどころ)ともいい、三種の神器の一つ・八咫鏡(やたのかがみ)を祀る場所

【昭陽舎】
後宮の建物のひとつで、庭に梨の木が植えられていたことから「梨壺」とも呼ばれる

京都御所の清涼殿/photo by Saigen Jiro wikipediaより引用

この他、「全ての建物を復興させた」ともありますので、内裏全体が信長主導で修理されたのでしょう。

逆に言えば、全ての建物を修理しなければならないほど朝廷の財政が逼迫していたとも言えますね。

修理された建物には「天皇の住まいの中心」といえる場所も含まれます。
この状況で、皇族の命が無事だったのが実に不思議です。

 


利息は朝廷に献上せよ

さらに信長は、朝廷の収入を安定させるため一計を案じました。

京都の一般人たちに米を貸付け、

「この米の利息は、朝廷へ献上するように」

と命じたのです。

現代の金融業と同じく、米や金を貸す場合、その利息は貸し手の利益になります。

つまりこれは、

「ウチの利益はどうでもいいから、その分は朝廷を立て直すのに協力しろ」

と同義。慈善事業といってもいいほどです。

信長は、既に他のところでたくさん儲けられる算段がついていたからこそ、ここで太っ腹なところを見せて、世間からの心証を良くしようと思ったのでしょうね。
また、公家の領地や相続についても手を貸してやり、これもありがたがられたとか。

 


京都復興に投資する価値は大

信長は経済感覚が優れていた――つまりお金の流れをよくわかっていた。
そんな趣旨の関連書籍を見かけることがあります。

【永楽通宝】の旗を使っていたことからもお察しですね。

永楽通宝/photo by Galopin wikipediaより引用

信長は、織田家領内での関所を全面的に撤廃し、旅人と経済の流れを促進させました。

信長公記ではこれらのことを「信長が慈悲深いからこういうやり方をしたのだ」というように書いていますが、それはさすがに美化し過ぎでしょう。

これまでにも織田家では、門前町や流通の拠点となる町の経済促進を促し、財テクを積極的に取り入れてきました。
父・織田信秀の代からそうでした。

織田信秀
織田信秀(信長の父)は経済も重視した勇将~今川や斎藤と激戦の生涯

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町全体が職人街に成りえる京都周辺ならば、さらに促すことは理にかなった話です。

むろん、庶民への思いやりも多少はあったかもしれませんが、それは記録には残らない部分。
朝廷に限らず寺社も保護している一方で、新たな経済改革をサクサクと断行する――それが信長ひいては織田家の経済力を支える基盤だったのかもしれません。

信用がお金を産む、と。

この節で巻四と元亀二年(1571年)の記述は終わりです。
次回からはまた、信長に新たな敵が増えていきます。

長月 七紀・記

※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。

織田信長
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る

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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。

信長公記

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麒麟がくるのキャスト最新一覧【8/15更新】武将伝や合戦イベント解説付き

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link


 



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