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【渋沢成一郎(喜作)】
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米相場や為替に敗れて借金30億円
もういいよ。聞いてて辛い。
そんな風に耳を塞ぎたくなるような成一郎のリクルート人生も、ここでいったん終了。
次は転職ではなく起業へと向かいました。
「今からやるなら蚕と米がいい。蚕は外国の需要もあるし、米は日本中の誰もが食べるからだ」
成一郎の挑戦に対し、栄一も喜んでアイデアを進言。
程なくして横浜に「生糸問屋渋沢商店」が設立されます。
しかしながら、栄一が語るように成一郎は「投機的」な男でした。
米と蚕糸の商売だけに飽き足らず、米相場(今でいう先物取引)に手を出し、大損失を招いてしまうのです。
この借金については栄一が尻拭いをし「今後は、絶対に米相場には手を出さず、現物の委託販売に留め、原則として生糸のみを扱うこと!」を念押ししました。
「わかった!」
という二つ返事でバクチを止められる人物であれば、最初から米相場に手を出したりしません。
3~4年はおとなしくしていましたが、明治18年(1885年)に今度は弗相場(ドル相場:今でいえばFX)に手を出してしまうのです。
彼曰く
「始めるとこれがなかなか面白く、簡単にはやめられない」
ということですが……そりゃダメでしょ!
栄一も相当呆れていたようで、案の定、成一郎は大失敗します。
「米相場のように生易しい失敗ではなかった」ようで(栄一談)、明治20年(1887年)時点でなんと70万円、今の価値で30億円ほどの巨額負債を作ってしまうのです。
隠居を条件に借金を建て替え
借金については栄一が保証人になっているわけでもありません。
支払いできなければ、単に銀行の損害となるだけ。
さすがに栄一としても「無視してもよかった」ようですが、そうは言っても「幼少の頃より生死をともにした間柄であり、むざむざ商売をつぶすのは惜しい」と考えます。
そこで次のような条件を出し、成一郎の借金を建て替えてやりました。
・成一郎は隠居する
・息子の渋沢作太郎に店を譲る
・家業には口出しせず、手出しもしない
建て替えた30億円もの大金は、成一郎の息子・作太郎が返済することになっていました。
が、誰より驚いたのは父の成一郎だったかもしれません。
己の息子には紛れもなく商才があり、店はみるみる繁盛。20年計画の借金返済が、その約半分12年で完了してしまったのです。
残念ながら作太郎は若くして亡くなってしまいましたが、跡を継いだ成一郎の三男・義一も優秀な経営者でした。
店は変わらず繁盛し、成一郎もそれを見て大層喜んだと語ります。
隠居してからも若干の「おイタ」はあったようですが、大したことではなかったので栄一がその都度補填してやりました。
なかなか懲りない人ですね。
そして息子たちの活躍を見守った成一郎は、大正元年(1912年)8月30日に74歳でその生涯を終えました。
★
イトコの栄一や息子たちとは異なり、まったく商才のなかった成一郎。
栄一も「はた迷惑な男である」と言いつつ、困ったときには常に手を差し伸べていて、人間的には信頼していたのでしょう。
商才を発揮した息子たちとは親子のように親密な関係を築いていたともいいます。
確かに商売の才能はありませんでしたが、もしかすると教育者には向いていたのかもしれませんね。
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文:とーじん
【参考文献】
公益財団法人渋沢栄一記念財団『渋沢栄一を知る事典』(→amazon)
渋沢栄一/守屋淳『現代語訳渋沢栄一自伝:「論語と算盤」を道標として』(→amazon)
土屋喬雄『渋沢栄一(人物叢書)』(→amazon)
鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇 (文春文庫)』(→amazon)
安藤優一郎『江戸のいちばん長い日:彰義隊始末記』(→amazon)
渋沢栄一記念財団「実験論語処世談22巻 4.渋沢喜作との関係」(→link)