明治22年(1889年)2月12日は森有礼(もりありのり)の命日です。
朝ドラ『らんまん』で橋本さとしさんが演じたのを覚えている方もいらっしゃるでしょうか。
幕末から始まるこのドラマは明治時代も丁寧に描き、薩摩閥の政治家や実業家も登場。
森有礼も薩摩出身の一人で、初代文部大臣であり、一橋大学の創設者ともされます。
しかも、理想の教育論を掲げながら、最期は出刃包丁で刺されて亡くなるという衝撃的な死を迎える――森有礼の事績を振り返ってみましょう。

森有礼/wikipediaより引用
明治の“薩摩隼人”とは
朝ドラで薩摩隼人といえば?
やはり印象深いのは『あさが来た』の五代友厚でしょう。
ディーン・フジオカさんが演じられた、スッキリ爽やかな好青年――。
当時の彼らは日本人の中でも背が高く、洋服も着こなし、勝ち組だけにお金や留学チャンスにも恵まれていました。
早くからイギリスと手を結んできただけに、グローバルな考え方もできたのですね。
幕末にはモテないことで有名だった薩摩隼人も、維新後は女性たちがなびくのも無理はなく、金と権力、西洋的なセンスも兼ね備えていました。

五代友厚/国立国会図書館蔵
しかし、そんな姿と対象的なのが『らんまん』に登場していた薩摩隼人です。
あのドラマでは、明治の薩摩隼人の“歪”な姿も描かれました。
英語と鹿児島ことばが混ざり、洗練されているのか、荒々しいのか、一体どちらなのかわからない。
たとえスーツをサッと着こなしていても、時折、仕草が殺気立ってしまう。
幼少期から徹底的に仕込まれた剣術(薩摩ジゲン流)の動きが出てしまうことも彼らの特徴で、五代友厚の銅像もその姿勢を取っています。
彼らはとにかく荒々しい武士の名残を残していて、ナイフとフォークで洋食を食べ、ワインを飲んでも、自宅に戻れば、甘く煮付けたサツマイモをツマミに芋焼酎をがぶ飲みする。
そして何より、根強い男尊女卑がありました。
長州藩出身者ほど露骨な女遊びはせずとも、時に金と権力をふりかざし、急激に西洋化しようとするあまりどこか危うい――。
『らんまん』で象徴的だったのが、主人公の恋のライバルとなった高藤雅修です。
長身の美男でダンスはお手のもの。しかし万太郎が恋した寿恵子を横浜で愛人として囲おうとして、様々なアプローチをしかける。
表面的には紳士なのに、実はゲスい。
寿恵子を演じる渡辺美波さんは「ヤバ藤」と呼んでいたとか。SNSでも「キモ藤」「エグ藤」「クズ藤」とさまざまな呼び名がつけられたものでした。
明治の薩摩隼人を描くうえで、脚本、薩摩ことば、所作指導、それに演技も素晴らしい『らんまん』。
高藤に続いて登場するのが、歴史に実在した森有礼でした。
矢田部良吉と森有礼
森有礼の前に『らんまん』の登場人物でもう一人注目しておきたい方がいます。
ドラマでは要潤さんが演じていた田邊彰久で、そのモデルは東京大学・初代植物学の教授である矢田部良吉とされます。

矢田部良吉/wikipediaより引用
この矢田部と森有礼は、一緒にアメリカへ渡った外遊経験があります。
それだけに二人とも西洋文化に詳しく、鹿鳴館でダンスをしたり、高等女学校で教えたこともありました。
矢田部は前妻を失った後、この高等女学校での教え子を妻として、「これからの夫は、理学士か教育者がよい」などと書いて物議をかもしたことも。
彼をモデルとした小説が挿絵入りで掲載されたこともあったとかで、何かと話題にのぼる人物だったようです。
そして、明治24年(1891年)に突如、東京大学を罷免。
その後は高等師範学校の校長を務め、明治32年(1899年)夏に鎌倉沖で溺死しました。享年47。
ドラマでは、田邊の後妻との関係性も描かれています。
いずれにせよ明治の女子教育には、男性が上から目線で「良妻賢母の枠に押し込める」という、女性の意思を無視する傾向がありました。
五代友厚とともに密航した若き俊英
幕末維新に活躍し、明治時代に権勢を振るった人物たちは、当時の若者から煙たがられる存在として「天保老人」と皮肉られました。
薩摩藩でも真っ先にイギリス留学を果たした五代友厚も、天保6年(1836年)生まれ。
明治維新前後に活躍した人物たちでは、この世代が最も分厚い層であり、森有礼はその一回りほど下の弘化4年(1847年)、薩摩国鹿児島城下春日小路町に生まれました。
五代たちよりも一世代下であることは、森を語る上で欠かせない要素となります。
※槙野万太郎のモデル・牧野富太郎は文久2年(1862年)生まれ
※田邊彰久のモデル・矢田部良吉は嘉永4年(1851年)生まれ
森有礼は、薩摩藩士・森喜右衛門有恕の五男として生まれました。
兄の横山安武は養子に出され、森自身は安政7年(1860年)頃から、藩校造士館でさまざまな学問を修めます。
さらに元治元年(1864年)頃からは、島津斉彬が尽力した洋学校・開成所に入り、英語まで学ぶ――いわば若きエリートですね。
幕末の薩摩藩は、尊皇攘夷に沸騰しており、ついには【生麦事件】が勃発。
【薩英戦争】が起きると、五代友厚はイギリス軍に捕まり、敵艦上から砲撃される故郷を見ることになったのでした。

激突するイギリス艦隊と薩摩砲台/wikipediaより引用
五代は開国の必要性を重視し、藩を説きます。
イギリス側にとっても有り難い話です。ヴィクトリア女王は自国民が殺傷されたことに激怒していたものの、現場の外交官は冷静。
ライバルのフランスが幕府に接近している以上、自分たちで親英の傀儡政権を打ち立てたほうが旨味があると判断しています。
薩摩と英国の利害はこうして一致し、幕府の目を盗みながらイギリスに密航する留学生が募集され、その【薩摩藩第一次英国留学】に若き俊英として選ばれたのが森有礼でした。
ロンドンでは長州藩の留学生と出会い、ロシアを周ってさらにはアメリカへ。
討幕に至るまでの政争および戊辰戦争には関わらず、その間、海外で見聞を高めていました。
20歳になる前に西洋文化にどっぷりと浸かった彼にとって、故郷の薩摩はあまりに粗野に思えたことでしょう。
当時の日本人は、キリスト教への忌避感が強いものでしたが、森はむしろ深い関心を示しています。
日本の伝統など、むしろ変えるべきだ――。
そう熱意に燃える若き秀才官僚が、明治の世に現れます。
彼は明治元年(1868年)6月、元号が変わったばかりの日本へ戻ってきました。
若き英才官僚、紳士として啓蒙につとめる
わずか21歳でありながら、英語もでき、西洋のことに詳しく、頭も切れる。
そして泣く子も黙る薩摩閥。
森有礼は華麗なる経歴を歩み始めました。
明治元年(1868年)に外国官権判事に就任すると、明治3年(1870年)秋には 少弁務使(しょうべんむし)としてアメリカへ赴任、教育について広く見識を深めます。
3年後の明治6年(1873年)夏に帰国すると学術団体「明六社」を結成しました。
啓蒙思想を掲げ、そこには錚々たる面々が集まります。
加藤弘之
杉亨二
津田真道
中村正直
西周
西村茂樹
福沢諭吉
箕作秋坪
箕作麟祥
森有礼

明六社の設立メンバー(上段・加藤弘之 杉亨二 津田真道 中村正直 西周/下段・西村茂樹 福澤諭吉 箕作秋坪 箕作麟祥 森有礼)/wikipediaより引用
明六社からは『明六雑誌』が発行され、画期的な「妻妾論」が発表されます。
妻を人として大切にする――そんな当たり前のことをわざわざ告知せねばならないほど、当時の日本はマッチョイズムに覆われてました。
江戸時代の後期から世が殺伐とし始めると、マッチョで強い豪傑タイプこそが理想的な男性とされたのです。
豪傑は、女遊びもこなして当然。
幕末になると、現実に明日をも知れぬ命となるため、京女の柔肌で慰める志士像が形成されてゆきました。
しかし、時は明治へ。
欲にまみれて女性を漁るなど、あまりに野蛮で恥ずかしい。
知性と理性で人の上に立つ、ジェントルマンこそ必要なのではないか?
彼らはそうした理想を掲げたのです。
日本初の契約結婚
理想だけでなく実践しなければ意味がない。
それをまず己の身で示したのが森有礼でした。
明治8年(1875年)、森有礼は幕臣の娘・広瀬常と、福沢諭吉を証人として契約結婚を果たします。
1. 森有礼は広瀬常を妻とし、広瀬常は森有礼を夫とすること
2. 存命にしてこの約定を守る間は、お互いを敬愛し、夫婦の道を守ること
3. 夫婦の共有する品については、互いの合意をせずに、他人に貸与や譲渡をしないこと
画期的な男女の姿がそこにはありました。
洋装で婚礼に現れた夫妻の姿を取材すべく、新聞記者も集う中、にぎにぎしくこの夫妻は契約を交わしたのです。
同年11月に清国公使に就任すると、明治12年(1879年)にはイギリス公使となり、順調に外交畑を歩む森。
明治18年(1885年)12月22日、第一次伊藤内閣が発足すると、初代文部大臣となりました。

伊藤博文/国立国会図書館蔵
念願の教育畑を仕切ることができる――。
森有礼は女子教育にも注力し、良妻賢母こそが国是であると定めますが……明治19年(1886年)に常と離婚するのです。
離婚の理由は「妻の素行不良」が原因とされます。
イギリス赴任時代、常が現地の男性と不倫したともされていますが、確たる証拠はありません。
いかに女子教育を訴えても、自身の妻となるとうまくいかない。そんな皮肉な結果ですね。
そして明治20年(1887年)、森は、岩倉具視の娘である寛子と再婚しました。
大日本帝国憲法発布式典の日、凶刃に斃る
森有礼が再婚した年の12月、ある新聞記事が物議を醸します。
某大臣が三重県の伊勢神宮を訪れたときのこと。

伊勢神宮・内宮の宇治橋鳥居
ステッキで御簾をまくりあげ中を覗くと、禰宜に「おやめくだされ!」とたしなめられ、左手で帽子を取り、今度は土足厳禁の場所へ靴のまま踏み入り、参拝したというのです。
この不敬をやらかしたのは誰だ!
いざ犯人探しが始まると、世間から西洋かぶれとされる森は、その筆頭候補に挙がりました。
森は「漢字廃止論」や「日本の公用語を英語にする論」を提唱したことがあり、キリスト教を日本の国教にするつもりだという噂までされていました。
報道と噂が結びつき、やがてある“国士”の胸に怒りの炎をたぎらせていきます。
明治22年(1889年)2月11日は大日本帝国憲法発布の式典が開催。
この日、森の家に、西野文太郎という25歳の青年がやってきました。
「今日、大臣を路上で襲おうとしちょるものがおる。詳細は直接申し上げたい」
これは大変だ!と慌てた秘書が仕込み杖を取りに行くと、二階から大礼服を着た森が降りてきました。
勢いよく森に飛びつく西野。
その手には、よく研がれた出刃包丁があり、森は右脇腹を突き刺されます。
秘書が西野を殺害したものの、森は内臓が飛び出し、大量出血。
翌日午前5時、ついに森は帰らぬ人となってしまいました。
享年43。
大日本帝国憲法発布のため東京に祝砲が鳴り響く、その最中に「森文部大臣殺害」の号外が出回ったのでした。
福沢諭吉は森の死を嘆きました。
一人の大臣の死を嘆くのではない。わが文明のためとなる政治家を失ったことが惜しいのだ。
『時事新報』にそう記しています。
★
森有礼は優秀であり、優れた功績があります。
ただ、それよりも、別の要素から注目を浴びる人物です。
漢字廃止論という突拍子のなさ。
契約結婚からの離婚というスキャンダル。
大日本帝国憲法発布と重なる非業の死。
こうした業績と関係ない要素が注目を集めてしまいます。
ジェンダー観点から見直すと、彼の女子教育評価は今後高まることがあるとは思えません。
むしろ森とは異なり、良妻賢母枠を乗り越えた女子教育実現に尽くした、津田梅子が注目されています。
それも時代の流れなのでしょう。
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【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
渡辺浩『明治革命・性・文明: 政治思想史の冒険』(→amazon)
他





