明治二年(1869年)5月18日は、戊辰戦争の最終ラウンド・箱館戦争が終結した日です。
現在は”函”館ですが、当時はこの表記を使っていたので、今回は”箱”館表記で統一させていただきます。
土方歳三が戦死したり、現在は五稜郭が観光名所になっていたりして、歴史ファンの方以外にも、割と知られている方でしょう。
では、一体どんな経緯で起き、どんな結末を迎えたのか?
当時を振り返ってみます。
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1分でわかる箱館戦争までの流れ
戊辰戦争はあっちこっちで局地戦が起き、同時進行していたので経緯が非常にややこしい。
箱館戦争に関連するところだけ抜き出すと、以下のようにマトメられます。
【箱館戦争までの流れ】
江戸城が無血開城したため、生き残った武士たちの食い扶持を考えないといけなくなる
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徳川家に新しく与えられた領地(駿河・遠江70万石)では到底ムリという驚愕の事実
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幕臣の榎本武揚が「じゃあ俺がみんなを連れて蝦夷(北海道)を開拓しますよ!」と言い出す
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船で北へ向かい、仙台付近に立ち寄る
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奥羽越列藩同盟の中でまだ戦う気がある人と、土方歳三などが参加してさらに北へ
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新政府に「開拓しに行くので攻撃しないでね」(超訳)という嘆願書を出す
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蝦夷へ上陸
こんな感じで、当初の表向きとしては「皆のために新天地に行きますね!」ということになっていました。
しかし、途中で兵を集め、箱館港とは離れた地点に船をつけているので、軍備を整えるための時間稼ぎだったというのはバレバレ。
まぁ当時は情報が伝わるのはもっと遅かったので、新政府側がその状況を知るのはもっと後のことになります。
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五稜郭だけじゃなく四稜郭も
箱館に着いた後は、周辺に残っていた新政府軍との戦闘が始まりました。
旧幕府軍としても余裕がないので、当初は戦うつもりはなかったようですが、交渉に失敗してドンパチの開始。
松前城を攻め取り、旧幕府軍で政権を作ります。
この政権については特に名前はないながら「蝦夷共和国」と書かれることも。
当時のイギリス公使館の書記がそう表現したのが始まりだそうで、旧幕府軍が自ら名乗ったわけではないのがややこしいですね。
また、箱館戦争といえば五稜郭のイメージが強い方も多いかと思います。
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これは旧幕府軍が北海道での根拠地にしていたからです。ゆえに最後の戦いの舞台ともなったわけですね。
ちなみに、四稜郭という建物もあります。
五稜郭の近くにあり、その名の通り四つの角を持った建物。四つの角が少し変わった形をしています。
航空写真で見ると、横長の蝶に見えなくもないですね。
五稜郭が開国に際して北海道の防備を固めるために建てられたものだったので、四稜郭はその支城として作られました。
旧幕府軍にとっては最後の遺産でもあります。
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