日本初の西洋式要塞として、日本100名城の中でも異彩を放っている五稜郭。
外郭に突き出した三角形を組み合わせた「稜堡式(りょうほしき)」と呼ばれる城郭であり、実は15世紀のイタリアで発明されたものです。
こうした幾何学的で多角形な縄張りと、重心の低い石垣や土塁は、攻城戦で【大砲や鉄砲】が主流となっていた16世紀の欧州で発展していきました。
普段は何気なく「北海道の観光、うふっ♪」的な見方をされがちですが、いやいやナメてもらっては困りますぞ!
実はこの城、当時においては戦闘力バリバリの、非常に理にかなった設計となっているのです。
明治元年(1868年)10月20日に始まった箱館戦争の拠点としても知られていますよね。
では、実際の戦いぶりはどうだったのか?
本日は【実践としての城】という視点から、五稜郭を見ていきましょう。
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本来の稜堡式要塞には死角がない
五稜郭にみられる「稜堡(りょうほ)」とは、外に向かって突き出した堡塁(ほるい)のことで♠️スペード型♠️をしています。
設計図を描く際に最も重要なのは、スペードの「先っちょ」ではなく、両側に膨らんだ「耳」の下の、くびれた部分です。
以下の画像をご参照ください。
ポイントは、このくびれた部分に【★銃眼】を備えることなのです。
理由は、以下の一枚をご覧いただければ一目瞭然かと。
黄色い星★の銃眼から、鉄砲の弾道線を引くとどうなるか?
外郭を示す縄張りと一致しますね。
このように、稜堡の外壁にぴったり沿うようにカタチづくっていくのが基本。
なぜ、あんな変わったカタチだっのか?というと、稜堡の石垣や土塁に取り付こうとする敵を側面から射撃するのが狙いだったんですね。
【稜堡式要塞には死角がない】
なんて言われるのも、この【★銃眼】の設置に意味がるのでした。
また、スペード型の稜堡は、外から見たときに大きく膨らんだ「耳」で銃眼を隠すことができます。
要は、敵から狙われにくい。
ただし、この銃眼から隣の稜堡の側面すべてをカバーするように設計されますので、
【稜堡の一辺が銃の射程以内】
に収まる必要があります。
それがわかりやすいのが、都市全体を覆うような巨大な稜堡式要塞です。
後に、この類の要塞は多角形化していくのですが、それは、三角形や四角形では一辺が長くなり過ぎて【銃の射程距離内に収まらなくなった】からです。
逆に言えば、一辺の距離を短くするために多角形化が必要だったのですね。
函館の五稜郭が五角形なのも、城の面積と鉄砲の射程距離によって決まりました。
以下の図で立体的にイメージされるとわかりやすいかもしれません。
箱館奉行所が痛恨のミスだった
ペリーの黒船来航で箱館を開港した徳川幕府は、この地を松前藩領から幕府直轄地にしました。
同時に幕府は、奉行所改築の必要性に迫られます。
当初の箱館奉行所は港に近く、外国船の艦砲射撃の射程内かつ箱館山から見下ろすような位置にあり、いざというとき外国が偵察し放題という無防備な位置にありました。
そこで幕府は、箱館山から遠く、艦砲射撃が届かない場所まで奉行所を移すことにしたのです。
函館観光をすると、五稜郭が内陸の不自然な位置にあるのがわかります。
これは奉行所防衛のためだったのですね。
しかし、幕府は築城にあたって痛恨のミスを犯してしまいます。
望楼型天守のような【巨大な奉行所を五稜郭内に造ってしまった】のです。
これは最近、五稜郭内で復元されているため、今でも見ることが可能です。
通常、五稜郭のような稜堡式要塞は、大砲や鉄砲による攻撃に耐えるため重心の低い造りをしているのです。
その進化の過程を無視して、城の中心部に高い建物を建ててしまっては艦砲射撃の格好の的。
すると「五稜郭は艦砲射撃の射程外に築城したから大丈夫なのでしょう?」と思うかもしれません。
しかし、技術革新とは恐ろしいもので……。
次々と開発される大砲の射程距離は飛躍的に延び続け、築城からわずか数年で箱館湾から五稜郭まで届くようになっていました。
そして五稜郭に最初の一撃を与えたのは、皮肉にも外国船ではなく、旧幕府軍の榎本武揚だったのです。
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