武家政権を築いた者たちはみな「征夷大将軍」となり、自身の子孫へ継承してゆきました。
たしかに鎌倉幕府は三代で源氏将軍が途絶えましたが、いずれにせよ武士が政治を担うならば
将軍になることが大事
という印象がありませんか?
そこで不思議になってくるのが豊臣秀吉です。
九州から東北まで平定し、天下統一を果たした秀吉は、その後、征夷大将軍にはならず関白として武士の頂点に君臨しました。
公家の称号ではたしかに最高位とも言える関白。
もしかして豊臣政権が一代で崩壊してしまったのは「将軍」ではなく「関白」だったから?
「将軍」になっていたら長続きしていた?
ということで、考えれば考えるほど不思議な秀吉の関白就任を振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
右大臣は縁起が悪い!
大河ドラマ『どうする家康』でも描かれた秀吉の関白就任。
劇中では、望めばあっさり貰えるかのような展開でしたが、実際は秀吉がえげつないほどの策を弄し、その地位にまで上り詰めています。
注目は天正13年(1585年)。
前年の【小牧・長久手の戦い】で徳川家康を相手に大きな政治的勝利を得ていた秀吉は「内大臣」になっていました。
秀吉以外の有力貴族も含めると、当時の任官状況は以下の通りです。
関白:二条昭実
左大臣:近衛信輔
右大臣:菊亭晴季
内大臣:羽柴秀吉
名だたる貴族に並び、その一角に喰い込む秀吉。
この並びは、以下のように変わる予定となっていました。
関白:二条昭実 →1年ほど在職し、辞任する
左大臣:近衛信輔 →関白と左大臣兼任
右大臣:菊亭晴季 →辞職
内大臣:羽柴秀吉 →右大臣
「右大臣」が予定されていた秀吉ですが、これに抗議します。
理由は「縁起が悪い」というもので、【関白相論】と呼ばれる政争の始まりです。
関白相論
秀吉が「右大臣」を「縁起が悪い」としたのは他でもありません。
本能寺で討たれた織田信長が、当時、右大臣だったのです。
実は朝廷は【本能寺の変】が起こる直前、信長に対して
征夷大将軍・関白・太政大臣のうち希望する官職に任じる
と打診していました(【三職推任問題】)。
信長は、その答えが出る前に本能寺で亡くなったわけで、秀吉に「縁起が悪い」とゴネられても、朝廷が何か悪いことをしたわけではありません。
かといって強気にも出られません。
大河ドラマ『麒麟がくる』でも、金がなく荒れ果てた御所の描写がありましたが、実際問題、武士の財力がないとどうにもならず、京都の治安も、秀吉が設置した所司代がいなければ危険極まりない状況でした。
武士に首根っこを掴まれたような朝廷は、だからこそ大盤振る舞いとして右大臣のポストを用意したのです。
しかし、それを無碍に断られてしまった。
秀吉が迷信を信じたからなのか?
迷信にかこつけて、もう一足飛びに左大臣を狙ったのか?
だったら、この際、なんとかするか!……と、スムーズにいかないのが公家のややこしさ。
左大臣のポストから弾き出される近衛信輔は、早めに関白を譲るよう二条昭実へ迫ります。
近衛側の言い分としては、大臣でない立場から関白になったためしがない。
二条側の言い分としては、関白になってから一年以内に辞任した前例がない。
険悪なムードとなった両者は「三問三答」という当時の裁判で解決しようとするも、どうにもなりません。
そしてその解決が秀吉に持ち込まれます。
秀吉は前田玄以と菊亭晴季に投げかけたところ、意外な“妙案”が出されるではないですか。
それは秀吉が関白になればよいというものでした。
どちらかを非としても家が滅びかねない、そんな尤もらしい理屈を持ち出し、そう言ってきたのです。
本心からそう提案したのかどうか。そこはわかりませんが、そうなると身分が引っ掛かります。
関白には五摂家しかつけません。
そこで動いたのが『麒麟がくる』では本郷奏多さんが演じていた近衛前久。
近衛信輔の父にあたる前久の提案はこうでした。
・秀吉を近衛前久の「猶子」とする
・その上で関白職はいずれ信輔に譲る
秀吉に恩を売り、保身を図る策ですね。
【本能寺の変】のあと、前久は事件への関与を疑われ、危うい日々を過ごしていました。
武家に睨まれるよりは、いっそ取り込まれた方がよい。そんな判断もあったのかもしれません。
しかし、結果的にこれは前久が秀吉を甘く見ていたことになります。
※続きは【次のページへ】をclick!