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【なぜ秀吉は将軍ではなく関白に?】
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『吾妻鏡』を手本に東国政権を築いた家康
時代が下り江戸時代、こんな戯れ歌がありました。
つまり「徳川は織田と豊臣が作り上げたものを、真似て政権にしただけだろうが!」と皮肉られているわけですが、もしも家康が聞いたら「天下取りの手本は別にあるんだって……」と苦笑したかもしれません。
『鎌倉殿の13人』の最終回を覚えていらっしゃるでしょうか。
『吾妻鏡』を読み耽る徳川家康の場面がありましたが、あれは単なるサービスではなく、実際に家康が鎌倉幕府をロールモデルとして据えていたことを表しています。
家康の場合、秀吉とは異なり朝廷との一体化は進めず、東国政権として西とは距離を置いていました。
公家の頂点ではなく、あくまで源頼朝と同じ征夷大将軍としての地位を選んだのです。
本拠地も関東からは移しません。
たしかに孫の和子(秀忠の娘)は後水尾天皇へ入内させましたが、姻戚関係でも朝廷とベッタリ……ではなく距離を置いた付き合いにしています。
徳川将軍の正室は公家から迎えることが通例としてありながら、正室を母とする将軍は3代・家光以降に出てきていません。
そうした距離の置き方が、幕末になると変わってきます。筆頭老中・堀田正睦が、なかなか進展しない【日米修好通商条約】締結のため、勅許をもらったらどうかと考えてしまいます。
するとこの動きに乗じて、よりにもよって徳川御三家の一つ・水戸藩が動いてしまう。
【黒船来航】以来、己の政策をなんとしても通したい徳川斉昭は、朝廷工作に邁進。
【日米修好通商条約】の無勅許調印を許さないとして、孝明天皇が水戸藩に幕政改革を迫ったという【戊午の密勅】を出させてしまいます。
家康以来、なるべく政治から遠ざけていた朝廷と公家を、よりにもよって引き摺り込んでしまったのです。
【公武合体】により14代・徳川家茂は孝明天皇の妹・和宮を正室に迎えます。
二人は仲睦まじい夫妻となりますが、それはそれとして、家康が断固避けたかった皇女との婚礼が成立してしまった。
幕末を描くフイクションでは、長州にせよ、薩摩にせよ、会津せよ、新選組にせよ、政治暗闘の舞台となった京都でいかに過ごしたのか?が描かれます。
しかし、これもおかしな話です。
実際の政策論議や改革は、江戸で幕閣が行なっています。
京都で維新志士が美人芸者と恋に落ちるとか。新選組の襲撃から逃げるとか。本来、政治には無関係のはず。
あれは明治以降、出世した政治家が若い頃の武勇伝、テロリズム自慢として語ったものにすぎません。上司が「いやあ、俺も若い頃はやんちゃでさ」と語ったものの明治版ですね。
そもそも幕閣は、京都で勝手に政治闘争が起こる事態に苦りきっておりました。
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しかも、家茂が京都で没してしまい、後継としてあの徳川斉昭の子である慶喜が将軍に就任します。
慶喜は母が皇族の出身である吉子女王であり、それを誇りとしていました。
将軍が江戸以外で即位することも異例であり、もはやこうなると家康が憂慮した事態はどんどん崩壊してゆきます。
旗本御家人も、江戸の庶民も、慶喜が将軍になったと言われても何が何やらわからねえ。
「あの豚を食ってる一橋の奴か。略して豚一って呼ぼうか」
それが江戸っ子の本音。
この本音にこそ、東西の断絶が見てとれます。
明治維新――当時の江戸っ子が「御一新」と呼んだ政変とは、東国政権が西国政権に移り変わる転換点でした。
もしも大久保利通らが主張した大阪遷都が実現していたら、この構図はもっと明瞭になっていたことでしょう。
それでも明治以降、西高東低の傾向は残されています。インフラ整備等の普及速度。都市人口にそのあとはみてとれます。
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西国政権アップデート
秀吉はなぜ征夷大将軍にならなかったのか?
なることが出来なかったのか?
それとも、敢えてならなかったのか?
歴史というのは、単に事実を受け止めるだけでなく、その理由を考えてみることが醍醐味かもしれません。
江戸時代を経て、武士が天下を取るとためには将軍になるのがスタンダードであると日本人は刷り込まれてきました。
実は海外にもその影響があります。
幕末に来日した外国人は「大君」という将軍の呼び方に接します。
これが英語に取り入れられ、”tycoon”は「大物」「仕切り役」といった意味の単語になりました。
一方で「将軍」をそのまま取り入れた“Shogun”もロマンを掻き立てるようで、フィクションタイトルの定番。
1980年にドラマ化された作品およびそのタイトルはズバリ『将軍 SHŌGUN』であり、2024年にはそれを原案とした『SHOGUN 将軍』が真田広之さんの手により映像化されたのは皆さんご存知でしょう。
BBCが徳川家康を取り上げた番組でも、元のタイトルには”Shogun”の文字が入っています。
こうした思い込みがあるため、秀吉のやり方はどこか不自然に思えてしまうかもしれませんが、実のところ極めてスマートとも言える。
鎌倉幕府のあと、室町幕府は本拠地を京都に移し、西国政権に戻りつつ、征夷大将軍として君臨しました。
秀吉も本拠地を西国に置きました。
さらに天下を見据えるうえで、武家としての将軍ではなく、公家としての関白および太閤に価値を見出したのです。
西国政権としてのアップデートを図ったともいえます。
秀吉の関白就任は、単なる見栄とかプライドなどではない。彼なりの深遠な理由があったように思えてなりません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
渡邉大門『清須会議』(→amazon)
渡邉大門編『秀吉襲来』(→amazon)
本郷和人『日本史のツボ』(→amazon)
本郷和人『日本史を疑え』(→amazon)
本郷和人『日本史の法則』(→amazon)
小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』(→amazon)
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(→amazon)
他