秀吉の妻と側室

豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家

大の女好きで知られる豊臣秀吉には実際どんな側室がいた?上司や同僚の身内すら

2025/02/22

成り上がりの金持ちが、美女をとっかえひっかえ自分のものにする――。

聞けば誰しも不快感を覚えてしまうであろう、この行状を堂々やってのけた人物がいます。

太閤殿下こと豊臣秀吉です。

側室にした女性は数知れず。当時から「アイツやり過ぎじゃね?」と指摘された行為は、なんとも節操なき相手にまで及んでいます。

◆織田信長の娘

◆お市の娘

◆前田利家の娘

◆蒲生氏郷の妹

その他もろもろ

現代で言えば、上司や同僚の身内にも手を出しまくったわけですよね。

ここまで来ると、女癖が悪すぎて明治天皇に叱られた伊藤博文をも彷彿とさせますが、同時に豊臣秀吉は創作エピソードが多い人物としても知られます。

実際のところ、秀吉には何人の妻や側室がいたのか?

それは、どんな女性たちだったのか?

豊臣秀吉/wikipediaより引用

本記事で秀吉の女性遍歴を振り返ってみましょう。

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正妻・北政所

「ねね」か「おね」か。名前に諸説があり本稿では「ねね」で進めて参ります。

豊臣秀吉がねねと結婚したのは永禄4年(1561年)。

彼女は杉原定利の次女であり、浅野長勝の養女でした。長勝とは、秀吉と同じ足軽長屋に暮らしていた同僚です。

秀吉の姓である「木下」は、ねねの母方の姓を借りたものとされます。

それだけ秀吉の身分が軽かったということですが、彼女の家も同じ長屋ですから、そこまで出自の差はないでしょう。

秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)/wikipediaより引用

二人は恋愛結婚、堅苦しい言い方をするならば「野合」(本人同士のみの合意による結婚)とされます。

当時としては珍しいとされ、フィクションではロマンチックに脚色されるものですが、いかんせん低い身分であればそこまで珍しくなかった可能性も。

足軽長屋での結婚はありふれていて、もしも二人が出世しなければ、ごくごく平凡な話として認知されていたでしょう。婚礼も、いたって気軽で質素なものだったようです。

結婚当時の年齢は秀吉が25歳、ねねが14歳から21歳まで諸説あります。

彼女にとって辛かったのは、男児を産めなかったことでしょう。

子供もおらず、実家も有力一族ではない。

それでも、秀吉や周囲から重要視されていた彼女は、頭の良い“賢夫人”であることが想像されます。

加藤清正や福島正則ら、子飼い武将を慈しんでいたのも彼女の功績。

聡明で気立てがよい――さすが秀吉の天下取り貢献したとされる女性です。

しかし、後世では不名誉な印象が定着してしまいます。

淀殿への嫉妬から、子飼いの武将たちに【関ヶ原の戦い】で東軍につくよう誘導したとされてしまうのです。

・女の敵は女

・嫉妬心により豊臣を滅ぼした

こうした秀吉死後のねね(北政所)イメージは、あくまで後世のミソジニー(女性嫌悪)による捏造。

しかし、印象があまりに強くて物語が盛り上がるためか、大河ドラマはじめその他のフィクションでも誇張して描かれてきました。

近年ではそうした描写が減り、2016年『真田丸』の彼女は、むしろ豊臣家を守ろうとした人物像になっています。

なお『絵本太閤記』の秀吉は、ねねの前におきくという女性を妻としていますが、これは架空の人物とされます。

 


南殿

元亀元年(1570年)頃、秀吉はある女性に石松丸という男児を産ませています。

諸説ある中、その母とされるのが南殿。

長浜城主となった秀吉は、彼女を正式に妻の一人として迎えたとされていて、「南殿」という呼び名は、城の南側に住んでいたのでしょう。

このことにねねが機嫌を悪くして、織田信長はこんな書状を送ったとされます。

安土城に初めて来てくれてありがとう。

土産もすばらしくて、到底褒める言葉が見つからないよ。

織田信長/wikipediaより引用

お返しはどうしようか悩んだけれども、もう思いつかないんだよ。だからお返しは次に渡すことにする。

あなたの魅力はますます磨きがかかり、十だったのが二十になったくらい。

藤吉郎(秀吉)がウダウダ抜かしているというけれど、とんでも無い話だよ。

どこを探したってあなたほどの女性を、あのハゲネズミが見つけられるわけがないのにね。

だからこれからはあんまりぐちぐちしないで、明るく堂々と、嫉妬なんかしないでいきなよ。

妻は言いたいことを全部言うのではなくて、ちょっとセーブ気味にするといいかな。

この書状は藤吉郎にも見せること!

戦国ファンにはよく知られたこの手紙。ねねが手元に置いて、夫に見せていたからこそ現代にまで伝わっているのでしょう。

ねねの言動に参っていた秀吉にとっても、ギスギスしていたねねにとっても、ありがたい緩衝材のようなもの。

書状が送られたころ、南殿は女児を産んだと推察されます。

子供のできないねねにとっては非常な脅威であり、それで思うところがあったのかもしれません。

しかし南殿が生んだ子は二人とも夭折してしまい、彼女も出家してしまいます。

秀吉が天下人となる前の出来事だったせいか、有力な側室にも数えられていません。寛永11年(1634年)に死去したとされます。

 

淀殿

彼女も呼び方が複数あります。

かつては「淀君」が一般的で、大河ドラマでも『独眼竜政宗』まで、そう呼ばれていました。

現在は「淀殿」とされることが一般的ですが、当時もそうだったとは考えにくく、江戸時代以降の呼び方とされます。

しかし2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、豊臣秀頼を紹介するSNSで「淀君」を用いており、ドラマ制作の姿勢に不安を感じさせたものです。

※本稿は「淀殿」で統一

淀殿/wikipediaより引用

そもそも彼女は、浅井長政と織田信長の妹・お市の間に生まれた長女で、茶々という名でした。

淀殿が、戦国の女性らしい苦悩を幼くして味わうことになったのは天正元年(1573年)のこと。

伯父・信長により父が滅ぼされ、母と妹たちと共に城を出ることになったのです。

以降、およそ十年間、お市と三姉妹の平穏な生活が続きます。

そして天正10年(1582年)に織田信長が【本能寺の変】で討たれると、母のお市は柴田勝家に嫁ぎ、淀殿もついていきました。

なお、この縁談は、織田家の後継者を三法師(のちの秀信)とする【清洲会議】の結果により、信長の三男・織田信孝の意向で決められたものです。

柴田勝家/wikipediaより引用

しかし、北ノ庄城での生活は長く続きません。

翌年、父の勝家が秀吉との戦いに敗れ、母のお市と共に自害、淀殿を含む三人の娘たちは城外へ逃がされました。

かくして秀吉の庇護下に入った三姉妹の姿は、その後はっきりしません。

確たることとして追えるのは、嫁ぎ先が明らかになってからのこと。

淀殿は、天正17年(1589年)年に第一子・拾を産んでおり、そこから逆算して、天正16年(1588年)頃には秀吉の妻となったとされます。

ただし妹たちの縁談からすると、それ以前にある程度の発言力があってもおかしくはありません。

男児を授けた淀殿は、秀吉の寵愛を得ます。

天正18年(1590年)の【小田原の陣】にも彼女を呼び寄せていたほど。

しかし、この拾が幼くして亡くなると、秀吉はもう男児はできぬと相当落ち込んでしまいます。それが文禄2年(1593年)のことで、産まれてきたのはまたしても男児でした。

「おかかさま」「お袋さま」と呼ばれ、母として愛された淀殿は、側室ではなく、北政所と並ぶ正室としての権威を有していたとする説もあります。

若く愛される秀吉の妻として、花見や茶会で華麗な姿を見せていました。

しかし、慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、その運命は暗転してゆきます。

伏見城からまだ幼い秀頼と共に大坂城へ。

家康の台頭に警戒した毛利輝元、石田三成らは、慶長5年(1600年)に【関ヶ原の戦い】で敗北してしまいます。

そしてその5年後の慶長10年(1605年)、父・家康から将軍職を譲られた徳川秀忠の御台所には、淀殿の妹・江(ごう)がいました。

姉妹の立場は逆転してしまったのです。

江(崇源院)/wikipediaより引用

そのまま大坂で一大名として生きていければ、淀殿は満足だったかもしれません。

しかし、泰平の道はまだ遠い。徳川幕府に不満を持つ浪人たちが大坂城に集い、家康としても看過できなくなりました。

そして慶長19年(1614年)、大坂城は東軍に囲まれてしまいます。

和議が成立するも、結局その翌元和元年(1615年)、大坂城は炎上しました。

城に西洋渡来の大砲を容赦なく撃ち込まれ、淀殿はどれほどおそろしかったことでしょう。

我が子・豊臣秀頼と共に自刃し、戦国最後の女城主として炎の中に消えた……以降、女城主は途絶えます。

『どうする家康』では、幼い浅井三姉妹の妹二人は「家康が自分たちの父だったかもしれない」と語っていました。

しかし、淀殿は子を産み、地位をあげていく過程で、父・長政と母・市の手厚い供養を秀吉に頼んで、実現させています。

「家康が父だったかもしれない」という描き方は、父を慕っていた淀殿にとっては失礼な描き方かもしれません。

 

松の丸殿

豊臣秀吉は派手好きとして知られます。

慶長3年(1598年)、間近に迫った死を予期していたのか。自分の寵姫たちをこれみよがしに醍醐の花見で侍らせました。

このとき、北政所と淀殿に次ぐ輿に乗せられていたのが松の丸殿です。

京極高吉の娘で、竜子という名で知られていますね。

松の丸殿(京極竜子)/wikipediaより引用

松の丸殿は、当初、若狭守護・武田元明に嫁ぎました。

しかし夫と兄は【本能寺の変】で明智光秀に味方して、【山崎の戦い】で羽柴軍に敗れると、彼女は兄・高次の命を救うべく、秀吉の側室となりました。

名門の出身かつ美貌であり、秀吉の寵愛も厚かった。

有力一族の娘を側室にして、女系の力も自らの権力構造に組み込みたい――そんな秀吉にとって彼女は美貌のみならず血統も相当に魅力的だったでしょう。

秀吉の死後は兄のいる大津城に身を寄せました。

慶長5年(1600年)の【関ヶ原の戦い】では西軍が大津城に大砲を撃ち込み、侍女二人が吹き飛ばされ、そばにいた松野丸殿は卒倒。

淀殿の仲介により和睦し、松の丸殿は京都に移りました。

そして寛永11年(1634年)、京都で亡くなります。

兄・高次の妻は、浅井三姉妹の二女・初です。

松の丸殿は、北ノ庄城から庇護された浅井三姉妹と共に安土城で暮らしていたという説もあります。姻戚関係を考慮すれば納得できる説といえます。

秀吉には側室が数多く残されています。しかし子がいないためか、その動向が追いにくくなっています。

 


加賀殿

前田利家の三女。

名は「おまあ(摩阿など複数の表記あり)」です。

【北ノ庄城の戦い】で利家が勝家の人質としたものの救出され、天正14年頃(1586年頃)には上洛し、側室とされたとされます。

前田利家/wikipediaより引用

病弱であり、父のもとにいることが多く、やがて側室であることを辞退。

京都で結婚するも加賀に戻り、慶長10年(1605年)に没したとされます。享年は推定30代前半とされます。

 

甲斐殿

武蔵忍城の戦いで奮戦した甲斐姫のこと。

小田原落城により降伏し、秀吉の側室となりました。

慶長8年(1603年)に没したとされます。

 


三の丸殿

織田信長の五女で、母は信忠の乳母とされます。

醍醐の花見では淀殿、松の丸殿の次に位置していました。

三の丸殿/wikipediaより引用

 

三条殿

蒲生賢秀の娘で、兄は蒲生氏郷。

お虎という名前が伝わります。

 


姫路殿

信長の弟である織田信包の娘、つまりは信長の姪となりますね。

姫路城に住んだことから姫路殿とされるものの詳細は不明です。

織田信包/wikipediaより引用

 

香の前

名はお種。

秀吉が伊達政宗の家臣である茂庭綱元と囲碁をするときに賭け、綱元が勝利しました。

はじめは政宗が寵愛し、綱元に下げ渡されたとされます。寛永17年(1640年)没。

 

その他

南の局、広沢局、円融院こと宇喜多秀家の母など。

秀吉には、他にもまだ複数の側室がいたと伝えられます。

太閤殿下が美貌の姫を見つけて、ワシの側に来いと迫る――そんな伝説も数多残されましたが、実際、好色だったことは確かでしょう。

「秀吉は強烈な肉欲に取り憑かれている」という記録が宣教師はじめいくつも記されていますし、醍醐の花見のように華麗な美女を見せびらかすことも、そうした印象を強めました。

『醍醐花見図屏風』に描かれた豊臣秀吉と北政所たち/wikipediaより引用

そんな秀吉の女性遍歴を見ていると、わかりやすい傾向が浮かんできます。

権力の上昇と共に側室が増えている。

子が産まれず、実家に権勢があるわけでもない、そんな妻(ねね)の顔色を当初はうかがっていたものの、自身が出世するにつれ徐々に罪悪感など薄れていったのでしょう。

かくして手にした数多の女性たち。

秀吉の好みは「上淫(じょういん・身分が高い相手に情欲を覚えることで対義語は下淫)」と評されることがありますが、実際そうなのか?

あらためて彼女たちの顔ぶれを確認すると、必ずしもそうとは断言できないでしょう。

秀吉は貴族社会でも関白にまで昇りつめながら、公卿の姫君よりも武士の女性を選んでいました。

武家同士の繋がり――つまりは政治的関係も考慮した結果では?とも思えます。

もちろん、節操のない秀吉の好色ぶりは生前当時から伝えられていましたので、派手に見せびらかすようなパフォーマンスが、こうした「上淫」の印象を高めたのでしょう。

あるいは、豊臣家が滅んでしまい「側室のイメージが悪くなった」ことも影響しているかもしれません。

賢夫人ねねと気の強い淀殿――そこにコメディタッチで秀吉のおちゃらけ描写が加わり、彼の生々しい好色っぷりが世間へ広まってしまった。

 

秀吉の女性関係は江戸時代から誇張ありき

江戸時代の庶民にも、その名をよく知られていた豊臣秀吉。

それだけに当時からフィクションでよく取り上げられ、女性関係はことさら面白おかしく描かれるだけでなく、ときには「豊臣家滅亡の原因」とすらされてきました。

そうした創作話による偏見を取り除いていくと、彼女たちの新たな像が浮かんできます。

豊臣家の存続を願ってきた北政所。

最後の女城主ともいえる淀殿。

彼女たちが、いがみ合うばかりの女性でなかったことは、前述の通り大河ドラマ『真田丸』でも描かれた通りです。

しかし、淀殿には、稀代の悪女として描かれた長い歳月があり、今後も、その誤解を払拭するのはなかなか難しいことかもしれません。

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【参考文献】
福田千鶴『淀殿』(→amazon
別冊歴史読本『太閤秀吉と豊臣一族』(→amazon
新人物往来社『豊臣秀吉事典』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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