秀吉はなぜ将軍ではなく関白になった?

豊臣秀吉/wikipediaより引用

豊臣家

なぜ秀吉は将軍ではなく関白になったのか|エゲツない手法で公武政権を樹立した真意

2025/08/17

源頼朝にせよ、足利尊氏にせよ、徳川家康にせよ。

武家政権を築いた者たちはみな「征夷大将軍」となり、自身の子孫へ継承してゆきました。

たしかに鎌倉幕府は三代で源氏将軍が途絶えましたが、いずれにせよ武士が政治を担うならば

将軍になることが大事

という印象がありませんか?

そこで不思議になってくるのが豊臣秀吉です。

九州から東北まで平定し、天下統一を果たした秀吉は、その後、征夷大将軍にはならず関白として武士の頂点に君臨しました。

公家の称号ではたしかに最高位とも言える関白。

もしかして豊臣政権が一代で崩壊してしまったのは「将軍」ではなく「関白」だったから?

「将軍」になっていたら長続きしていた?

ということで、考えれば考えるほど不思議な秀吉の関白就任を振り返ってみましょう。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

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右大臣は縁起が悪い!

大河ドラマ『どうする家康』でも描かれた秀吉の関白就任。

劇中では、望めばあっさり貰えるかのような展開でしたが、実際は秀吉がえげつないほどの策を弄し、その地位にまで上り詰めています。

注目は天正13年(1585年)。

前年の【小牧・長久手の戦い】で徳川家康を相手に大きな政治的勝利を得ていた秀吉は「内大臣」になっていました。

『小牧長久手合戦図屏風』/wikipediaより引用

秀吉以外の有力貴族も含めると、当時の任官状況は以下の通りです。

関白:二条昭実

左大臣:近衛信輔

右大臣:菊亭晴季

内大臣:羽柴秀吉

名だたる貴族に並び、その一角に喰い込む秀吉。

この並びは、以下のように変わる予定となっていました。

関白:二条昭実 →1年ほど在職し、辞任する

左大臣:近衛信輔 →関白と左大臣兼任

右大臣:菊亭晴季 →辞職

内大臣:羽柴秀吉 →右大臣

「右大臣」が予定されていた秀吉ですが、これに抗議します。

理由は「縁起が悪い」というもので、【関白相論】と呼ばれる政争の始まりです。

 


関白相論

秀吉が「右大臣」を「縁起が悪い」としたのは他でもありません。

本能寺で討たれた織田信長が、当時、右大臣だったのです。

織田信長/wikipediaより引用

実は朝廷は【本能寺の変】が起こる直前、信長に対して

征夷大将軍・関白・太政大臣のうち希望する官職に任じる

と打診していました(【三職推任問題】)。

信長は、その答えが出る前に本能寺で亡くなったわけで、秀吉に「縁起が悪い」とゴネられても、朝廷が何か悪いことをしたわけではありません。

かといって強気にも出られません。

大河ドラマ『麒麟がくる』でも、金がなく荒れ果てた御所の描写がありましたが、実際問題、武士の財力がないとどうにもならず、京都の治安も、秀吉が設置した所司代がいなければ危険極まりない状況でした。

武士に首根っこを掴まれたような朝廷は、だからこそ大盤振る舞いとして右大臣のポストを用意したのです。

しかし、それを無碍に断られてしまった。

秀吉が迷信を信じたからなのか?

迷信にかこつけて、もう一足飛びに左大臣を狙ったのか?

だったら、この際、なんとかするか!……と、スムーズにいかないのが公家のややこしさ。

左大臣のポストから弾き出される近衛信輔は、早めに関白を譲るよう二条昭実へ迫ります。

近衛側の言い分としては、大臣でない立場から関白になったためしがない。

二条側の言い分としては、関白になってから一年以内に辞任した前例がない。

険悪なムードとなった両者は「三問三答」という当時の裁判で解決しようとするも、どうにもなりません。

そしてその解決が秀吉に持ち込まれます。

秀吉は前田玄以と菊亭晴季に投げかけたところ、意外な“妙案”が出されるではないですか。

それは秀吉が関白になればよいというものでした。

どちらかを非としても家が滅びかねない、そんな尤もらしい理屈を持ち出し、そう言ってきたのです。

本心からそう提案したのかどうか。そこはわかりませんが、そうなると身分が引っ掛かります。

関白には五摂家しかつけません。

そこで動いたのが『麒麟がくる』では本郷奏多さんが演じていた近衛前久。

近衛信輔の父にあたる前久の提案はこうでした。

・秀吉を近衛前久の「猶子」とする

・その上で関白職はいずれ信輔に譲る

秀吉に恩を売り、保身を図る策ですね。

【本能寺の変】のあと、前久は事件への関与を疑われ、危うい日々を過ごしていました。

武家に睨まれるよりは、いっそ取り込まれた方がよい。そんな判断もあったのかもしれません。

しかし、結果的にこれは前久が秀吉を甘く見ていたことになります。

 

平から藤原 そして豊臣へ

秀吉は、農民出身なのか、それとも足軽なのか――彼の出身階層は諸説あって詳細は不明ながら、低かったことだけは間違いないのでしょう。

戦国武士の中でも極めて低いとされ、「木下藤吉郎」の「木下」すら諸説あり、はっきりとしていません。

血筋にはこだわらない織田家中だからこそ出世も叶えられ、途中、彼は「羽柴」と名乗りました。

ご存知の通り、織田家の重臣から一文字ずつ取った名字であり、

丹羽長秀=羽
柴田勝家=柴

そんな身分でも、朝廷に任官されるとなると氏が必要となります。

そこで秀吉は平氏であるとして「平秀吉」を名乗りました。織田信長を模倣したと考えられます。

しかし、近衛前久の猶子になるため、今度は平から藤原へ改めます。

天正14年(1585年)9月、秀吉は自らの政庁として聚楽第を築き上げました。

この年、朝廷では正親町天皇が譲位して後陽成天皇が即位しているのですが、滞りなく進められたのは秀吉の財政支援あってのこと。

後陽成天皇/wikipediaより引用

秀吉は、近衛前久の娘である前子(さきこ)を猶子とし、新帝の後陽成天皇へ入内させ、同年、自らは太政大臣に就任。

新たなる氏として「豊臣」を定めます。

秀吉は突出した人物であるとして、源平藤橘に並ぶ「豊臣」を氏として作り上げたのです。

前例を踏襲しない画期的なことでした。

 

秀次に関白を譲り 自らは太閤となる

翌年の正月、武家のみならず公家までもが年賀の挨拶に訪れました。

めざましい立身出世。

前例のない道を邁進する中で、秀吉は近衛前久との約束をあっさり反故にします。

天正19年(1590年)、甥の豊臣秀次に関白の位を譲ったのです。

もともと関白職は秀吉の一代限りで、その後は近衛に戻すという条件を無視して「関白を継ぐのは豊臣氏である」と示したのです。

しかも自らは「太閤」として、関白以上の権威を保持しました。

太閤の称号を用いたのは秀吉一人ではありませんが、太閤として権力を振舞ったのは秀吉ぐらい。それほどまでに異例の権力把握を成し遂げたのです。

秀吉は、新たなる氏である豊臣を公家の頂点に据え、己に従った武家には「豊臣」あるいは「羽柴」姓を与えました。

それまでの武家は、偏諱を与える(名前を一文字与える)ことが通例だったのに、それを変えたのです。

さらには武家に官位も与え、結果、武家の序列化が進んでゆきました。

官位による大名家のランク付は江戸時代以降も続いてゆきますが、そもそもは秀吉のもとで武家と公家の融合が進められたのですね。

秀吉は京都と大坂を行き来しながら、天下への足場を固め、公家を相手に謀略戦を制していったのでした。

天下統一とは、単に武家との合戦だけではなかったのです。

 


『吾妻鏡』を手本に東国政権を築いた家康

時代が下り江戸時代、こんな戯れ歌がありました。

織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 すわりしままに 食うは徳川

織田信長と豊臣秀吉のやり方を、徳川は真似ただけじゃないか

つまり「徳川は織田と豊臣が作り上げたものを、真似て政権にしただけだろうが!」と皮肉られているわけですが、もしも家康が聞いたら「天下取りの手本は別にあるんだって……」と苦笑したかもしれません。

『鎌倉殿の13人』の最終回を覚えていらっしゃるでしょうか。

『吾妻鏡』を読み耽る徳川家康の場面がありましたが、あれは単なるサービスではなく、実際に家康が鎌倉幕府をロールモデルとして据えていたことを表しています。

家康の場合、秀吉とは異なり朝廷との一体化は進めず、東国政権として西とは距離を置いていました。

公家の頂点ではなく、あくまで源頼朝と同じ征夷大将軍としての地位を選んだのです。

本拠地も関東からは移しません。

たしかに孫の和子(秀忠の娘)は後水尾天皇へ入内させましたが、姻戚関係でも朝廷とベッタリ……ではなく距離を置いた付き合いにしています。

徳川将軍の正室は公家から迎えることが通例としてありながら、正室を母とする将軍は3代・家光以降に出てきていません。

そうした距離の置き方が、幕末になると変わってきます。筆頭老中・堀田正睦が、なかなか進展しない【日米修好通商条約】締結のため、勅許をもらったらどうかと考えてしまいます。

するとこの動きに乗じて、よりにもよって徳川御三家の一つ・水戸藩が動いてしまう。

【黒船来航】以来、己の政策をなんとしても通したい徳川斉昭は、朝廷工作に邁進。

【日米修好通商条約】の無勅許調印を許さないとして、孝明天皇が水戸藩に幕政改革を迫ったという【戊午の密勅】を出させてしまいます。

徳川斉昭/wikipediaより引用

家康以来、なるべく政治から遠ざけていた朝廷と公家を、よりにもよって引き摺り込んでしまったのです。

【公武合体】により14代・徳川家茂は孝明天皇の妹・和宮を正室に迎えます。

二人は仲睦まじい夫妻となりますが、それはそれとして、家康が断固避けたかった皇女との婚礼が成立してしまった。

幕末を描くフイクションでは、長州にせよ、薩摩にせよ、会津せよ、新選組にせよ、政治暗闘の舞台となった京都でいかに過ごしたのか?が描かれます。

しかし、これもおかしな話です。

実際の政策論議や改革は、江戸で幕閣が行なっています。

京都で維新志士が美人芸者と恋に落ちるとか。新選組の襲撃から逃げるとか。本来、政治には無関係のはず。

あれは明治以降、出世した政治家が若い頃の武勇伝、テロリズム自慢として語ったものにすぎません。上司が「いやあ、俺も若い頃はやんちゃでさ」と語ったものの明治版ですね。

そもそも幕閣は、京都で勝手に政治闘争が起こる事態に苦りきっておりました。

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しかも、家茂が京都で没してしまい、後継としてあの徳川斉昭の子である慶喜が将軍に就任します。

慶喜は母が皇族の出身である吉子女王であり、それを誇りとしていました。

将軍が江戸以外で即位することも異例であり、もはやこうなると家康が憂慮した事態はどんどん崩壊してゆきます。

旗本御家人も、江戸の庶民も、慶喜が将軍になったと言われても何が何やらわからねえ。

「あの豚を食ってる一橋の奴か。略して豚一って呼ぼうか」

それが江戸っ子の本音。

この本音にこそ、東西の断絶が見てとれます。

明治維新――当時の江戸っ子が「御一新」と呼んだ政変とは、東国政権が西国政権に移り変わる転換点でした。

もしも大久保利通らが主張した大阪遷都が実現していたら、この構図はもっと明瞭になっていたことでしょう。

それでも明治以降、西高東低の傾向は残されています。インフラ整備等の普及速度。都市人口にそのあとはみてとれます。

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西国政権アップデート

秀吉はなぜ征夷大将軍にならなかったのか?

なることが出来なかったのか?

それとも、敢えてならなかったのか?

歴史というのは、単に事実を受け止めるだけでなく、その理由を考えてみることが醍醐味かもしれません。

江戸時代を経て、武士が天下を取るとためには将軍になるのがスタンダードであると日本人は刷り込まれてきました。

実は海外にもその影響があります。

幕末に来日した外国人は「大君」という将軍の呼び方に接します。

これが英語に取り入れられ、”tycoon”は「大物」「仕切り役」といった意味の単語になりました。

一方で「将軍」をそのまま取り入れた“Shogun”もロマンを掻き立てるようで、フィクションタイトルの定番。

1980年にドラマ化された作品およびそのタイトルはズバリ『将軍 SHŌGUN』であり、2024年にはそれを原案とした『SHOGUN 将軍』が真田広之さんの手により映像化されたのは皆さんご存知でしょう。

BBCが徳川家康を取り上げた番組でも、元のタイトルには”Shogun”の文字が入っています。

こうした思い込みがあるため、秀吉のやり方はどこか不自然に思えてしまうかもしれませんが、実のところ極めてスマートとも言える。

鎌倉幕府のあと、室町幕府は本拠地を京都に移し、西国政権に戻りつつ、征夷大将軍として君臨しました。

秀吉も本拠地を西国に置きました。

さらに天下を見据えるうえで、武家としての将軍ではなく、公家としての関白および太閤に価値を見出したのです。

西国政権としてのアップデートを図ったともいえます。

秀吉の関白就任は、単なる見栄とかプライドなどではない。彼なりの深遠な理由があったように思えてなりません。

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【参考文献】
渡邉大門『清須会議』(→amazon
渡邉大門編『秀吉襲来』(→amazon
本郷和人『日本史のツボ』(→amazon
本郷和人『日本史を疑え』(→amazon
本郷和人『日本史の法則』(→amazon
小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』(→amazon
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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