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【なぜ秀吉は将軍ではなく関白に?】
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平から藤原 そして豊臣へ
秀吉は、農民出身なのか、それとも足軽なのか――彼の出身階層は諸説あって詳細は不明ながら、低かったことだけは間違いないのでしょう。
戦国武士の中でも極めて低いとされ、「木下藤吉郎」の「木下」すら諸説あり、はっきりとしていません。
血筋にはこだわらない織田家中だからこそ出世も叶えられ、途中、彼は「羽柴」と名乗りました。
ご存知の通り、織田家の重臣から一文字ずつ取った名字であり、
丹羽長秀=羽
柴田勝家=柴
そんな身分でも、朝廷に任官されるとなると氏が必要となります。
そこで秀吉は平氏であるとして「平秀吉」を名乗りました。織田信長を模倣したと考えられます。
しかし、近衛前久の猶子になるため、今度は平から藤原へ改めます。
天正14年(1585年)9月、秀吉は自らの政庁として聚楽第を築き上げました。
この年、朝廷では正親町天皇が譲位して後陽成天皇が即位しているのですが、滞りなく進められたのは秀吉の財政支援あってのこと。
秀吉は、近衛前久の娘である前子(さきこ)を猶子とし、新帝の後陽成天皇へ入内させ、同年、自らは太政大臣に就任。
新たなる氏として「豊臣」を定めます。
秀吉は突出した人物であるとして、源平藤橘に並ぶ「豊臣」を氏として作り上げたのです。
前例を踏襲しない画期的なことでした。
秀次に関白を譲り 自らは太閤となる
翌年の正月、武家のみならず公家までもが年賀の挨拶に訪れました。
めざましい立身出世。
前例のない道を邁進する中で、秀吉は近衛前久との約束をあっさり反故にします。
天正19年(1590年)、甥の豊臣秀次に関白の位を譲ったのです。
もともと関白職は秀吉の一代限りで、その後は近衛に戻すという条件を無視して「関白を継ぐのは豊臣氏である」と示したのです。
しかも自らは「太閤」として、関白以上の権威を保持しました。
太閤の称号を用いたのは秀吉一人ではありませんが、太閤として権力を振舞ったのは秀吉ぐらい。それほどまでに異例の権力把握を成し遂げたのです。
秀吉は、新たなる氏である豊臣を公家の頂点に据え、己に従った武家には「豊臣」あるいは「羽柴」姓を与えました。
それまでの武家は、偏諱を与える(名前を一文字与える)ことが通例だったのに、それを変えたのです。
さらには武家に官位も与え、結果、武家の序列化が進んでゆきました。
官位による大名家のランク付は江戸時代以降も続いてゆきますが、そもそもは秀吉のもとで武家と公家の融合が進められたのですね。
秀吉は京都と大坂を行き来しながら、天下への足場を固め、公家を相手に謀略戦を制していったのでした。
天下統一とは、単に武家との合戦だけではなかったのです。
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