1万石の松前藩は小藩のイメージが強いです。
しかし、これは大きな誤解。
上方からやって来る北前船との間で、豊富な海産物を取引しており、莫大な利益を上げていました。
さらには……。
蝦夷地には、樺太のアイヌを経由した大陸との交易もあり、松前藩は最果ての地にありながら、石高制では決して測ることのデキない巨額の富を築いていたのです。
このような実態を知ることで初めて見えてくるのが松前城の全貌です。
箱館山はまるで天然の不沈空母のようだ
幕末になってロシアなどの外国船が蝦夷地に現れると、幕府は蝦夷地防衛のための築城を計画します。
この海域で最も優れた防御陣地は箱館山。
海に突き出た箱館山は、津軽海峡を通過するあらゆる船に高さで勝り、いち早く捕捉できます。
それはまるで天然の不沈空母のような存在でして。
現代においても、戦前まで函館山は要塞として日本軍の管轄下にあって、一般の立ち入りを禁じていたほど軍事的に恵まれた要衝です。
幕府と松前藩は当初、この箱館山に築城する予定でした。
しかし松前城下の商人たちが「お願いだから箱館に行かないでくれ!」と全力で嘆願してきます。
しまいには「松前なら築城に掛かるお金も寄付しますから!」となりふり構わず引き止めにかかったのです。
なぜなら彼ら商人にとって城の移転は死活問題。
箱館に移ってしまえば城下町の賑わいもそのまま箱館に移り、ビジネスに悪い影響が出る必至でした。
国防より商売の方が大事なんかーい
「国土防衛よりも、商人の陳情の方が大事なのか!」
思わずそう嘆きたくなりますが、そもそも松前の町は武士の家と商人の家が混在する珍しい城下町。
藩も商人と一心同体であり、互いに商取引があってこそ繁栄も成り立つのです。
結局、城は藩主が居館にしていた「福山館」付近の高台に築城することにします。
このため松前城は「福山城」とも呼ばれます。
このように戦略、戦術よりも政治的に築城地が決まった松前城には、もう嫌な予感しかしません。
役割から城の特徴を見てみよう
松前城の役割は、海からやってくる外国の軍艦に対する防衛拠点です。
そのため、南側の海からの攻撃に対する防御に力点が置かれます。
城は、北から伸びる海岸段丘の突端を利用して、南の海に対してやや高台の地に縄張りされました。
敵の艦砲射撃に備えるため、城の南側は二の丸と三の丸を設置。
大砲用に7つの砲座も備え、一部に西洋式も取り入れた要塞です。
一方、城の背後である北側には寺社を集めて外郭の防衛拠点としましたが、城郭には小さな堀を設けた程度で南側と比べると少々寂しい縄張りでした。
自然の段丘を利用して築城する方法は戦国時代以来のありふれた方法です。
江戸城はじめ、大坂城や金沢城、松江城など多くの近世城郭は段丘の突端を利用しています。
このような城郭では、陸続きの台地上に莫大な予算の注ぎ込んで大規模な深くて長い堀を施し、城から台地を切り離します。
城郭用語で「堀切」と呼びます。
皮肉にも榎本と土方にやられてしまう
通常、段丘のような高台は、三方が海や川で天然の防御がありますが、台地側は陸続きなので、容易に城に近付くことができます。
この方面には用心に越したことはありません。
江戸城では何重にも堀を築き、さらに西の丸を拡張し、本丸までの縦深を拡大しています。
金沢城も石川門の外側に深い水堀を築き、さらに台地側に広大な兼六園を造営して城の縦深を拡げています。
このように松前城も北側の陸続きに対して、大規模堀切を築いて台地から城を切り離したり、「北の丸」を増築したりすべきでした。
戦闘正面が南の海側を想定していたとはいえ、いざ戦になれば外国の海軍は軍艦からの艦砲射撃と同時に陸戦隊を上陸。
実際にこの戦術を外国の軍隊ではなく、榎本武揚(艦砲射撃)と土方歳三(陸戦隊)の旧幕府軍にやられて落城してしまったことは何とも皮肉な話です。
松前城は、太平の世に学ぶことを禁止され、すっかり忘れ去られた「戦略・戦術」を日本人に思い起こさせたという意味でも、来たる20世紀の戦争の世紀につながる記念碑的な城でもあるのです。
【松前城の教訓】
「たとえ戦闘正面でなくとも 台地の陸続きには 大規模な堀切や郭を必ず設けるべし!」
「既得権益者の陳情に一度でも耳を傾ければ その城 必ず落ちるだろう」
筆者:R.Fujise(お城野郎)
日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。