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【オリンピック負の歴史】
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銀幕での悲しき再会、競技場からの出征
ベルリン五輪のあと、記録映画『民族の祭典』が公開されると、日本中は熱狂に包まれました。
こんな素晴らしい五輪が、もうすぐ日本にやって来る――そんな興奮に包まれていったのです。
スポーツは素晴らしい。日の丸のためならば死んでもいい。そんな熱狂を味わった者が日本中にいました。
しかし、そう簡単に熱狂できない者もおりました。
背後にある政治色に違和感を感じる人もいたのです。
それ以上に、悲劇的な再会を果たし、涙をこらえきれない者もいました。
中国戦線で戦死したはずの弟が、入場行進に映っている——そのことに気づき、あまりに皮肉な再会に愕然としてしまった人も、当時の日本にはいました。
戦火に散るアスリートは、もっと増えていきます。
スポーツの熱狂とともにあった施設も、皮肉な使われ方をします。
それが学徒出陣——。
その壮行会が開催された施設の多くが、明治神宮外苑競技場をはじめ、スポーツで使用されてきたものでした。
かつてスポーツに声援を送っていた若者たちが、銃を担いで行進することとなったのです。
「平和の祭典」に落ちる政治の影
第二次世界大戦を終えると、日本にも徐々にスポーツの息吹が戻って来ました。
とはいえ、対戦前夜のファシズムとスポーツの結びつきを考えると、そこに向けられるまなざしは慎重にならざるを得ません。
五輪を誘致すべく田畑政治らが苦労したのも、まさにこうした警戒心が世界中に渦巻いていたからこそ。
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今度こそ、オリンピックを平和の祭典とすべく、世界中が力を合わせるようになっていったのでした。
しかし、そうはならないこともあります。
1972年のミュンヘン五輪では、惨劇が発生しました。
パレスチナ人テロ集団「黒い九月」が、イスラエル選手団を襲撃し、犯人も含めて17名が犠牲となっています。
このあと、熾烈極まりないイスラエル側の報復作戦が繰り広げられるのです。
冷戦や政治対立は、その後も、五輪に暗い影を落とし続けました。
1976年:モントリオール→アパルトヘイトを行う南アフリカ参加への抗議によるボイコット、「二つの中国」問題による中国のボイコット
1980年:モスクワ→ソ連のアフガニスタン侵攻への抗議によるボイコット
1984年:ロサンゼルス→米軍のグレナダ侵攻への抗議によるボイコット(モスクワボイコットへの抵抗措置)
ボイコットのための不参加という、政治的な意見表明がなされるようになったのです。
パレスチナ問題にせよ、冷戦にせよ。
その根をたどれば第二次世界大戦があります。いくら政治と無縁だと言いつのったところで、こうした事実は厳然と突きつけて来ます。
もうひとつ、考えたいことがあります。
いくら政治とスポーツは無関係だと言ったところで、政府からの援助がなければ五輪へと選手は派遣できません。
これはつまり、政府が首を縦に振らねば、スポーツ選手は何もできないということでもあります。
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