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【池田綱政】
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「女好きすぎて70人も子供を作った」
そんなわけで綱政はかなりデキる部類のお殿様だったわけですが、なぜか記録上ではボロクソにいわれています。
「女好きすぎて70人も子供を作った」
「根っからのバカで学がなかった」
などなど、散々な扱いです。
しかし、当時の乳幼児死亡率を考えれば子供が多いのは悪いことではありません。
お家を残していかなくてはいけない大名家なら尚更です。
事実、やっと成長したかと思ったら十代のうちに死んでしまった息子も何人かいました。
※以下は乳幼児死亡率の関連記事となります
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そんな状態では、たとえ何人作っても安心できなかったことでしょう。
実際、徳川家斉も55人の子供がいますしね。家斉の子供は53人説もありますが『国史大辞典』だと55人。まぁ2人ぐらいは誤差ですな。

徳川家斉/wikipediaより引用
それより15人も多い70人はいろんな意味でやりすぎですが。
どうせなら徳川家康みたいに「後家さん=健康な子供を産める確率の高い女性」に絞り込んで狙えば良かったのに……その辺までは考えられなかったのかもしれません。
儒教への興味が薄くてバカ扱いされた可能性
バカだったかどうかにも疑問が残ります。
というのも、この時代の”学問”はほぼ儒教の事を指していたので、
「儒教に興味がない」=「ありがたい教えを理解できないバカ」
という扱いをされていた可能性が高いからです。
綱政はどちらかというと公家の文化である和歌や書道が得意だったので【儒教命!】な武家から見ればバカとされたかもしれないといわれています。
特に能が得意で、時には自ら舞って家臣や領民に見せていたとか。
豊臣秀吉みたいですね。秀吉の血は入ってないんだけど……。
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ちなみにお父さんの光政は武門一辺倒だったため、もしかすると
「うちの跡取りは軟弱なことばかりに興味を持って、とんだバカ息子だ」
なんてボヤいたのがどんどん誇張されていってしまったのかもしれません。だとしたらトーチャン……(´・ω・`)
というかホントにアホだったら何が何でも隠居させて養子なりなんなりに後を継がせていたでしょうから、何十年も藩主をやれていた時点で「どうしようもないアホ」という可能性はかなり低いと思われます。
綱政だけでなく「不当に貶められていたが、実は領民思いのお殿様だった」というケースは、まだまだ他にあるかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
磯田道史『殿様の通信簿 (新潮文庫)』(→amazon)
日本人名大辞典
池田綱政/wikipedia







