安永5年(1776年)2月8日は、岡山藩の三代目藩主となる池田継政(つぐまさ)の命日です。
信長の乳兄弟だった池田恒興の子孫ですね。
あるいは姫路城を「白鷺城」にした池田輝政といったほうがわかりやすいでしょうか。
池田恒興(信長の乳兄弟)
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池田輝政(姫路城)
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池田利隆
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池田光政
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池田綱政
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池田継政←今日ここ
江戸中期の大名というと、だいたいお金の話や財政再建の話が主でしたが、この人はまた一風変わった出来事で後世にインパクトを与えています。

池田継政/wikipediaより引用
一体何をどうした人なのか、振り返ってみましょう。
絵に描いたような名君がナゼ突然?
“継”政(つぐまさ)は、パッと見ちょっとややこしい“綱”政(つなまさ)の次男。
兄が早世したため、嫡子として藩主の座を引き継ぐことになりました。
「継」の字は七代将軍・徳川家継からの偏諱で、「政」は池田家の通字です。
仏教への信仰が篤く善政を敷いたとされ、飢饉のときも岡山だけは一揆が起こらなかったといわれるほど慈悲深い人でした。
また、絵画や書道、能の才も持つ文化人でもありました。
ここまでは絵に描いたような名君なのですが、35歳のとき突然暴挙をはたらきます。
当然この歳になれば結婚して子供もいるわけですけれども、なんと幕府と相手先に一切相談なく、正室を離縁して実家に送り返してしまっているのです。
正室は、仙台藩の五代目藩主である伊達吉村の娘・和子でした。

伊達吉村/wikipediaより引用
伊達吉村をかなりざっくり紹介しますと「お家騒動の後始末をつけつつ、絵を得意とする風流な大名。ただし理屈くさい」という感じの人です。
もしかしたら、絵に関しては義理の親子で話をしたことがあったかもしれませんね。
池田継政は20歳で和子と結婚しているので、この時点では15年連れ添っていることになります。
また、二人の間では嫡男・宗政を授かっており、表面上はさほど問題があったとも思われません。
「離婚したんで後はヨロシク」前代未聞の書状を幕府へ
江戸時代の大名の結婚・離婚は政治上の諸々を防ぐため、幕府を通して行うものでした。
現在のように当事者同士で決められるものではありません。
諸々の事情で離婚したという例がないわけではありませんが、池田継政のように突然というのは前代未聞のことです。
しかも「離婚しました。事後報告したんでヨロシク」(超訳)と大胆にもほどがある届け出をしています。度胸ありすぎ。
もちろん幕府もビックリ仰天し、「離婚したのはわかったけど、どういうことなの?^^」(※イメージです)と詮議をかけました。
池田家の親戚にも「どういうことか知らない? 親戚の証言は重要だからヨロシク^^^^^^」(※イメージです)と探り&プレッシャーをかけています。
伊達家側の文書では、以下のような記録が残されております。
「池田殿は下屋敷に身分の低い者どもを大勢招き入れるなど、けしからぬことをしています。
そのため、池田家の家老どもは池田殿に愛想を尽かして閉じ込め、嫡子・宗政殿に毒を盛り、池田殿の弟である正純殿を立てようとしました。
しかしそのために奥方が邪魔になったので、池田殿の了承を得ずに離縁させたのです」
平たくいうと「池田殿の素行が悪いせいで家臣が謀ったんだろ?」ということです。
官位昇進したい同藩のスケベ心もあり……
池田継政は、これ以前にもたびたび病気療養と称して下屋敷に引きこもっていたことがあるため、それに対する不信もあったのでしょう。
ちなみに正室がいるのは上屋敷です。
大名は江戸滞在中、職務と私生活に都合の良い上屋敷にいなければならないので、怪しまれても仕方がありません。
おそらく日頃の継政に対する伊達家の感情は悪くなかったのでしょう。
もとから継政に対して悪く思っていたのならば「昔からいけ好かないヤツだったが、あの野郎やっぱりやりやがったな!」という雰囲気の記録になるはず。
ともかく「いい人が突然キレた」みたいな状況になった継政は、責任をとって藩主の座を息子に譲り、隠居しようと考えました。
このとき嫡男・池田宗政は10歳になっていましたので、家老の助けがあれば何とかなると思ったのでしょう。

池田宗政/wikipediaより引用
しかし、この時点での継政が、池田家の極官(その家の人がつける一番高い官位)になっていなかったので、家臣たちは隠居を押し留め、官位昇進に向けて動きました。
家格に関わることとはいえ、これだけ大騒ぎしといてなかなか図々しい発想ですよね。
離婚騒ぎについてはその年のうちになぜか収まり、継政は42歳のときに左少将に任官され、極官となりました。
しかし隠居したのはその8年後、50歳のときです。もうワケワカメ。
幕府からはお咎め無し 伊達家とは絶交状態に
ちなみに宗政のほうが先に亡くなったため、孫の池田治政が跡を継ぐことになりました。
治政は相続の時点で15歳でしたので、幼君というほどでもありませんが、おそらく亡くなるまでは後見していただろうといわれています。
幕府からは深く追求されなかったようです。
◆継政以降の当主
池田継政
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池田宗政
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池田治政
一方で、相手先の伊達家とは当然のごとく絶交状態となりました。
交流が再開したのは継政の死後、治政の代のことです。
治政が祖父に事情を聞いたかどうかはわかりませんが、「おじいさまは一体何を考えていたのだろう(´・ω・`)」と思ったことでしょう。
大名同士が仲良くし過ぎると幕府に疑われるとはいえ、その真逆になる必要もないわけですから。
池田家の記録では「奥方様には斬り捨てられても当然と思うような行状があった」とされています。
しかし、他に同様の記録がないので信じがたい話です。もうちょっと具体的に書いてくださいよー。
「記録に残すのは憚られて、なおかつ殺されても文句が言えないような理由」って一体何だったんでしょうねぇ。
ちなみに父の池田綱政(つなまさ)は江戸時代きっての【バカ殿】扱いされるお方です。

池田綱政/wikipediaより引用
必ずしも「そうとは言い切れないんではないか?」と疑問を呈す方もおりますが、それでも典型的バカ殿な記録を残されてしまっています。子供70人も作ってますし……。
よろしければ以下の記事と併せてご覧ください。
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【参考】
国史大辞典
大名の離婚をめぐって : 岡山藩池田継政の場合/大森 映子
池田継政/wikipedia





