慶長5年(1600年)8月22日は【米野の戦い】が起きた日です。
西暦1600年でこの時期の戦いといえば、真っ先に思い出すのが【関ヶ原の戦い】でしょう。
その前哨戦というと、戦国ファンの皆さまには【杭瀬川の戦い】が最も知られた戦いかもしれませんが、それ以外にもいくつか合戦があり、米野の戦いもその一つ。
「よねの」ではなく「こめののたたかい」と読み、岐阜城の南を流れる木曽川や境川の付近で行われています。
東軍は池田輝政や浅野幸長を中心とした18,000。
対する西軍は織田秀信ら9,000。
それは一体どんな戦いだったのか?振り返ってみましょう。
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戦いの主役・織田秀信とは
米野の戦いにおける西軍側の総大将は織田秀信です。
「え? 信長のお父さん……?」
と一瞬、勘違いされるかもしれませんが、惜しい、それは織田「信」秀。
織田「秀」信は、信長の孫になります。
織田信長の嫡男である織田信忠の長男であり、その名があまり知られてないのも無理はありません。
歴史の表舞台に出てきたのは清州会議ぐらいで、このとき豊臣秀吉に担ぎ上げられた「三法師」と言えばピンとくるでしょうか。
その後は際立った活躍はなく、関ヶ原の頃は岐阜に13万石程度を所領する大名でした。
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ではなぜ織田秀信は西軍についたのか?
本当は上杉討伐の際に家康から参陣するように求められたときに、秀信自身も参加する予定でした。
しかし、一説によると、参陣しようとした際に自分が着ていく甲冑選びに時間がかかっているうちに参陣に遅れたとか(オイオイ)。
そんな調子で参陣が遅れていたところ、石田三成が挙兵。
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どうすべきか?
となった時に、家臣の百々綱家や木造具康からは家康につくように言われたのですが、彼らには前田玄以に相談するように言っている間に、秀信は西軍参加を決めてしまいます。
まぁ、秀信自身、秀吉の養子だった豊臣秀勝の娘を嫁にしていましたので、西軍側につく理由はありました。
逆にいうと、わざと遅れて、西軍に参陣することを取り決めたのかもしれません。
一方の東軍側は、池田輝政が主力です。
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この戦の前に、カッとなりやすい福島正則と渡河する場所について竹鼻方面か米野方面かで言い争いになったのですが、井伊直政らが間に入って仲裁。
米野方面には池田輝政ら1万8千が向かうことになりました。
岐阜城から打って出た秀信
なぜ秀信は城から打って出たのだろう?
そんな疑問をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。
せっかく岐阜城という堅城が10kmほどの距離にあるのだから、ここで防衛に努めていればいいのでは?というのは自然な発想。
織田秀信軍は9千程度であり、相手は池田輝政が率いる部隊だけでも1万8千ですから、どう見たって籠城のほうが上策のように見受けられます。
それなのに、なぜ打って出たのか?
根拠はハッキリしておらず、複数の見立てがありますので、以下にざっとまとめましょう。
・秀信自身が戦の経験が少なかったから
・祖父の信長が桶狭間で大勝したから、自身も打って出たほうがいいという厨二病的思考だった
・戦の活路を見出すため自ら前に出た
・木曾川が一つの防衛ラインとしてかなり有利な地形だった
・岐阜城自体が長期間の籠城に向かなかった
実は岐阜城は籠城するのではなく、木曽川付近で迎撃して叩き返すという戦術があり、道三の跡を継いだ斎藤義龍を相手に信長も苦しめられたとされます。
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上掲の記事に詳細がありますが、もしかしたら秀信も、そのことを重視したのかもしれませんね。しかし……。
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