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【米野の戦い】
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奮戦するも大軍に押されて
で、戦の経過はどうだったのか?
まず、西軍は河田島付近で東軍をいったん攻撃します。
本当は東軍も福島隊と連携しながら攻撃時には狼煙を上げる予定だったそうですが、相手から攻撃をしてきたので、池田隊がフライング。
これが原因で瞬間湯沸かし器の福島正則と喧嘩になってしまいます。
西軍はすぐに押し戻されたため米野まで後退し、池田隊が木曾川を渡河するところを迎撃しました。
この時に織田隊は、百々綱家や木造具康ら総勢3,500ほどで前線に立ち向かうことになりました。
総大将の秀信はそれよりも北にある境川の閻魔堂にて1700人ほどで待機。
その他には約3,000の遊軍が控えていました。
織田隊は渡河する東軍に対して「矢来」(進軍を妨害しつつ敵を誘い込む構造の防御施設)で迎え撃つ構えを見せ、一方の東軍は、池田輝政家臣の部隊が先頭となり、川を渡りました。
織田秀信軍は、東軍が渡河してくるところを、誘い込み鉄砲や大筒で応戦。
茂みに潜ませていた兵を巧みに利用して相手に攻勢をかけます。
しかし、いかんせん兵数の差は歴然。
相手が少数と見た池田隊は一気に反撃しました。
さらには、先鋒を希望しながら却下されて不満に思っていた一柳直盛隊も西軍側の側面を攻撃。
秀信軍はそれでもなお奮戦しますが、さすがに時間の経過と共に敵の数に押され、西軍は敗退してしまいます。
知らせは秀信にも伝えられ、結局、岐阜城へ撤退という憂き目に……。
このとき東軍が挙げた首は227であり、捕虜50人とされます。
一騎打ちが行われていた!?
おおまかな戦の経過については以上、特に驚きのない結果かもしれません。
しかし、この戦いの面白いところは「いまどきそんなの流行らないでしょ~!」と言われそうな「一騎打ち」の話が残されています。
【東軍】からは一柳直盛の筆頭家老である大塚権太夫。
【西軍】からは、岐阜四天王の一人(といっても残りは誰かも知らない)飯沼勘平長資。
大塚権太夫はこの戦でも先陣を切る勇将で、既に二人の敵将首を上げていましたが、それを見た飯沼長資が首を取り返そうとして一騎打ちに発展したのです。
いざ戦いが始まると、飯沼が終始相手を押していく展開。
すると一柳は家臣・大塚の劣勢を見て5人の兵を送り、それを見た飯沼も兵士2人で阻もうとします。
結果、ヘルプは間に合わず、大塚は敢えなく首を取られてしまったのでした。
一騎打ちはこれだけではなく、まだ一つ話があります。
対戦相手は先ほどタイマンに勝ったばかりの飯沼長資と池田輝政の弟・池田長吉です。飯沼さん、タフっすな。
この二人は、飯沼が退却途中にばったり出くわしたもので、飯沼から名乗りを上げられると、挑発に乗って池田弟も自分がいい大人身分であることを忘れて名乗りを上げる。
家臣たちが「マジでそういうの止めてくださいってば!!!」と制止するのも聞かず、一騎打ちに出たのです。
両者は、取っ組み合いの喧嘩のような一騎打ちを展開。
疲労もあったためか飯沼の動きは鈍く、そうこうしているうちに飯沼が打ち取られ、池田弟に軍配が上がるのでした。
このとき池田弟は「敵ながらあっぱれ! 首は家康様へお届けする!」と告げたとされます。
武勇伝は『美濃雑事記』に記載されています。
敗れた織田秀信は岐阜城へ。
ようやく籠城と相成り、その詳細は以下の記事にてご覧ください。
東軍・西軍の有名武将が集った「岐阜城の戦い」はド派手な関ヶ原前哨戦だった
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若年寄・記
【参考】
高橋恒美『米野の戦いリテラシー : 関ヶ原合戦はすでに米野で勝負がついていた』(→amazon)
高橋恒美『企画NPO法人「笠松を語り継ぐ会」』(→link)