岐阜城の戦い

織田家

東軍・西軍の有名武将が集った「岐阜城の戦い」はド派手な関ヶ原前哨戦だった

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攻防の戦略を知る者同士の戦い

東軍の先鋒は福島正則池田輝政です。

前述のとおり彼らの目付役として家康の宿老である本多忠勝井伊直政もいました。

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その他に、浅野幸長や黒田長政、堀尾忠氏や山内一豊、一柳直盛など豊臣系の武将も数多く参戦。

東軍の作戦は、これまでの岐阜城攻略の戦史を踏まえ、できるだけ早く木曽川を渡河し、西美濃(大垣城)からの援軍が現れる前に岐阜城下にたどり着き、攻城戦を開始するというものでした。

一方の織田秀信も、当然、岐阜城防衛の戦略を熟知しております。

第一防衛ラインを木曽川に定め、敵の渡河ポイントを狙って攻撃を加える――。

祖父・信長譲りのかぶき者でおぼっちゃんの織田秀信が、寡兵で野戦に出たことを無能だとする意見もあります。

しかし、岐阜城が籠城戦に不向きであり、斎藤家が確立した美濃防衛戦略をしっかり理解していれば、織田秀信の木曽川で迎え討つ作戦が間違ってはいないことが分かります。

織田秀信に誤算があったとすれば、尾張方面からやってくる敵が尾張勢だけではなく、東軍連合の大軍団であったことでしょう。

また、本来であればその大軍団に横槍を入れるべく、大垣城に布陣する石田三成西行長、島津義弘が2万にも満たない兵力で、最前線の木曽川まで援軍に来てくれなかったことも痛手でした。

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織田秀信としては、何が何でも大垣城の兵力が、全軍をあげて援軍に来てくれることが岐阜城防衛の絶対条件です。

が、石田三成は若干の兵力を木曽川ではななく、岐阜城へ寄越し、自身と小西行長は木曽川の防衛ラインよりずっと手前の長良川の西岸に布陣。

島津義弘の軍勢だけを木曽川の墨俣の渡しまで突出させましたが、それもわずか1000人程度の兵力でした。

「三成、おまえ戦を知らんのか! 超有名人の俺様のじいちゃん(信長)の戦史くらい勉強しとけや、ボケ!」

と、織田秀信から三成に対して罵声が飛んでもおかしくないほど呑気な援軍でした。

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東軍は西軍の失策に乗じて勢いがついた

東軍にとって、岐阜城攻略における最大の難関は木曽川の渡河です。

彼らは軍勢を二手に分け、池田輝政を中心とする軍勢を東の渡し、福島正則を中心とする軍勢を西の渡しに配置して川を渡ります。

そこで三成の西軍は、どれだけの兵力を濃尾平野に展開してくるのか?

それが分からないため、池田輝政と福島正則の軍勢は、二箇所の渡しを同時刻に渡河する戦術を採りました。

敵の防御兵が分散するため、ドチラかが失敗しても、ドチラかは成功する可能性が高まる。そして上手く渡りきった組が織田秀信勢に横槍を入れる――そんな手順だったでしょう。

そして実際、福島正則を中心とする西の渡し組は、竹ヶ鼻城から出てきた織田秀信の配下により、木曽川渡河を完璧に阻まれます。

結局、福島正則は木曽川の下流まで回りこむはめになり、怒り心頭となって「支城はスルーせよ」という美濃攻略の定石を破り、竹ヶ鼻城を力攻めにして落城させます。

しかし、そんな無謀な作戦も結果的には良い方向へ転んだのかもしれません。

福島正則が無理な渡河を止めて主戦場から離れ、対岸の織田勢も木曽川下流まで向かったため、結果的に池田輝政の渡河がスムーズにいったとも考えられます。

この戦場での柔軟な対応が福島正則の強さなのかもしれません。

実際、池田輝政側には織田秀信配下のわずかな兵力しか守っておらず、大垣城の西軍も全く動いてこないため、輝政は圧倒的な兵力を持って、秀信の軍勢を撃退しました。

そればかりか、その後の野戦【米野の戦い】でも圧倒的勝利を収めました。

東軍の兵力を読み違えたのか。石田三成の援軍を期待していたのか。詳細は不明ですが、定石を読み違えた末の敗戦です。不都合な真実にも目を向け、冷静に自らの戦力を分析してこその戦術なのです。

かくして池田輝政は美濃に橋頭堡を構築することに成功。

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池田輝政は木曽川下流から戻ってくる福島正則の到着を待ちます。

通常、援軍が来る前に一気に岐阜城下まで攻め入ることが重要なのですが、さすがに臨機応変に対応してくれた福島正則に対して悪い、いや、これで岐阜城に一番乗りでもしたら『ヤツに何を言われるか分からない、メンドクセェな』とでも思ったのでしょうか。

大垣城の西軍に大きな動きがなかったことも幸いし、福島正則の軍と合流した後に岐阜城へ攻め込みます。

 


ド派手な攻防は正則に譲り本丸へ一番乗り

ここから岐阜城の攻城戦に入ります。

岐阜城は金華山単体の山ではなく、連峰であるので、それぞれの峰に曲輪を構築しています。

ここでも織田秀信は各峰の曲輪に兵力を分散させたと批判されていますが、これも岐阜城の特性である、平場が少なく大兵力を収容できないという特徴を理解していないことからくる誤解でしょう。

そもそも岐阜城は籠城には向いておらず、このような無残な展開で囲まれた時点で降伏すべきですし、実際、東軍も降伏勧告をしました。

が、織田秀信は拒否します。

結果論ながら、この時に拒否して戦ったことが、戦後、織田秀信配下の武将たちの武士としての価値を高め、各藩に破格の待遇で招かれました。

岐阜城攻めに話を戻します。

追手門(大手門)は福島正則、水の手口は池田輝政が担当しました

池田輝政は元岐阜城主であるので、すべて熟知しています。

輝政はド派手に武功を飾ることのできる追手門攻めを敢えて福島正則に任せ、実は本丸に最も近い、裏手の水の手口から攻め込み、本丸へ一番乗りを果たします。

さすがの池田輝政も岐阜城一番乗りの手柄までは譲る気がなかったのでしょう。福島正則が絡むと戦もなんだかほのぼのしますね。

本丸まで攻め込まれた織田秀信は自害を考えますが、東軍諸将の説得に折れ、ついに降伏します。

 

その時、石田三成は?

石田三成は、東軍が木曽川の渡河を開始した時点で、小西行長らと共に大垣城を出て、揖斐(いび)川西岸の沢渡(さわたり)に陣を張ります。

【米野の戦い】で織田勢が敗走したのを知ると、さらに家臣の舞兵庫を長良川西岸まで約1,000の兵を派遣。

また島津義弘は墨俣まで突出させます。

しかし福島正則らの軍勢から途中で別れて長良川に向かっていた黒田長政や藤堂高虎の軍勢が、彼らに気づいていない舞兵庫の軍勢を捕捉し、長良川を越えて奇襲を仕掛けます。

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これで石田三成は、慌てて大垣城に撤退。結果的に岐阜城のみならず島津勢も墨俣に置き去りにされます。

この一件からみても、石田三成は後手を踏みまくっています。

そもそも岐阜城が籠城戦に不向きな城であること、ゆえにずっと前に大垣城を出陣して木曽川流域で全力で阻止しなければならないという美濃防衛の定石を踏んでいません。

美濃の生命線である木曽川を突破された上に濃尾平野に大軍勢を展開できなければ、岐阜城は戦わずして負けなのです。

「そこまで三成さんを悪く言うなよ!」と、お考えの方もいるかもしれません。

それでは石田三成の布陣が間違ってなかった、もしくは何か意図があったとして、その布陣を分析してみましょう。

まず石田三成にとって、東軍の美濃侵攻時点での最大の懸念は、西軍主力の毛利秀元小早川秀秋(東軍?西軍?論争はさておき)、宇喜多秀家大谷吉継などの大軍勢が美濃に到着していなかったことです。

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立花宗茂など、少数ながら精強な軍勢も、一度、美濃の垂井まで出陣したものの大津城を攻めに近江に向かってしまったことも誤算でした。

最前線である美濃−尾張間での東西のパワーバランスが既に崩れていたのです。

また、軍を揖斐川や長良川西岸に付近に布陣するという、岐阜城防衛を考えると中途半端な布陣は、そもそも美濃防衛というより、近江、佐和山城を中心にした防衛ラインを考えていたのではないでしょうか。

戦の基本は自陣の外に橋頭堡を築き、それもできるだけ遠くに最前線を構えることです。

岐阜城防衛には明らかに西美濃に寄り過ぎで、素人目にも「そんなところにいてどうすんのよ?」といった場所に三成は布陣しています。

しかし佐和山城を中心に考えると、その先に関ヶ原の天嶮、さらに先には西美濃の大垣城、そして揖斐川、長良川、木曽川という東軍に対して何段にも天然の要害が続きます。

西軍の主力が到着していないことを考えると、揖斐川でも十分、敵側に突出した最前線に陣を張っていることになります。

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©2015Google,ZENRIN

いずれにせよ、敵を目前にして味方の岐阜城をさっさと切り捨てていることには変わりありません。やはり三成の大戦略に問題があったとしか言えないでしょう。

結果、岐阜城は1日で落城し、東軍は美濃侵攻に成功。岐阜城という強力な橋頭堡を築きました。

家康も遂に西に向けて進軍を開始します。

こうして東山道と東海道からやってくる大兵力を安全に美濃で合流させることがが可能に……なるはずでしたが、東山道からやってくる徳川秀忠率いる徳川家の主力に対して、信州上田城を守る真田昌幸がそうは問屋が卸さない戦いを展開します。

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東軍は東海道組のみで関ヶ原の戦いへと移行することになりました。

織田秀信は命を助けられ、その後、高野山での幽居生活となりますが、関ヶ原から間もない1605年、26歳の若さでなくなっております。

病死とも、自害とも。


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筆者:R.Fujise(お城野郎)

◆同著者その他の記事は→【お城野郎!

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。

現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。

特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

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