岐阜城の戦い

織田家

東軍・西軍の有名武将が集った「岐阜城の戦い」はド派手な関ヶ原前哨戦だった

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一気に岐阜城へ攻め込むべし

次に②へ。

通常、敵地では、支城を包囲または攻城しながら降伏開城させる方法を模索します。

しかし、美濃一国はたいへん広く、もたもたしている間に濃尾平野に大兵力が布陣してしまうリスクがあるのです。

特に大垣城のある西美濃方面の動員兵力は大きく、これが守備側の援軍に加わると攻撃サイドとしては脅威。

そこであえて支城はスルーし、西美濃の援軍が到着する前に岐阜城下まで一気に進軍することが重要となってきます。

それには、長良川の自然地形で西美濃の援軍を阻むか、あるいは侵攻前から地道に西美濃の武将たちを調略しておき、西美濃の援軍を無力化するか。

こうした事前の準備が非常に重要となるんですね。

更に③について岐阜城(稲葉山城)は、実は籠城戦に不向きだ――という致命的な弱点があります。

稲葉山城は金華山という長良川沿いの非常に険しい山の頂に築城されています。

※現在はフェイク天守が建てられ、ケーブルカーでふもとから一気に山頂まで向かえる

そんな状況から薄っすらと想像がつくかもしれませんが、金華山は平場が少なく、曲輪に十分な広さを保てません。ゆえに兵力の収容能力が低いと云われています。

さらに岐阜城(稲葉山城)は井戸が無く、雨水を貯めて飲み水にしていたと云われています。

このような城では短期の攻城戦も、長期の包囲戦も不向き。

そのため美濃を攻略するには岐阜城の支城を一つ一つ潰していくよりも、一気に岐阜城を目指した方が得策なのです。

池田輝政福島正則の岐阜城攻めは、おおむねこの織田信長の戦略を踏襲したものでした。

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しかも池田輝政は織田秀信の前の岐阜城主です。

岐阜城主時代に信長の戦略を十分に勉強し、岐阜城防衛の戦略をあれこれシュミレートしていたことでしょうね。

 


本丸からは名古屋方面まで見渡せる

こうした東軍の攻め手に対し、西軍・織田秀信はどのような防衛戦略を展開したのか?

あらためて確認しておきますと……。

①木曽川で敵の進軍を阻止

②濃尾平野に敵を上回る軍勢を展開し包囲する

まず、尾張方面から岐阜城下まで、敵の進軍を阻止できる自然地形は木曽川とその周辺の沼地だけです。よって木曽川を第1防衛ラインとするのは必然です。

岐阜城から遠く離れた木曽川を第1防衛ラインとするためには、敵の侵攻計画をいち早くキャッチして、敵よりも早く木曽川にたどり着くことが重要です。

その際、最大の利点となるのは岐阜城(稲葉山城)の眺望です。

岐阜城山頂の本丸から南方は、現代でも名古屋方面まで見渡せるほど開けていて、尾張から木曽川に向かって来る敵の進軍を常時監視できます。

現在の岐阜城天守閣から眺めた長良川・鵜飼い大橋(現在の岐阜県岐阜市)

籠城戦に不向きな岐阜城は詰めの城というより、対尾張方面のレーダー施設のような役割を果たしていたといえるでしょう。

実際、斎藤道三や義龍は、織田家の侵攻情報をいち早くキャッチして、織田家よりも早く木曽川まで出陣することにより、織田勢を何度も木曽川で捕捉、撃退しております。

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また、織田家の侵攻前から尾張の織田家家臣にいやらしいほどの調略を仕掛け、尾張の犬山城を斎藤家に抱き込むなど、敵地の撹乱も怠りませんでした。

このように美濃に侵攻させないために岐阜城主は、平時から戦に備えていなければならないのです。

 


竹中半兵衛が考えた「十面埋伏の計」

次に「②濃尾平野に敵を上回る軍勢を展開して包囲する」について。

岐阜城では、仮に織田勢に木曽川流域を突破されても、縦深のある濃尾平野に大軍勢を配置しておくことにより、敵を野戦で包囲殲滅することができました。

それは距離が離れていて岐阜城では中々捕捉できない、木曽川下流を突破されたときには特に有効です。

斎藤家の家臣だった竹中半兵衛重治は、この濃尾平野を活かした縦深防御戦術「十面埋伏の計」を考えたと云われております。

縦に何段も陣を構え、直進してくる敵の攻撃を交わしつつ後退し、最終的に奥深く攻め入った敵を包囲する――という戦術。

実際に竹中半兵衛重治が考えたかどうかはあやしいですが、斎藤家の動員兵力と広い濃尾平野を考えると十分に有効です。

織田信長vs斎藤龍興(十四条の戦いより)

織田信長vs斎藤龍興(十四条の戦いより)©2015Google,ZENRIN

こんな防御の強固な美濃(稲葉山城)を織田信長が攻略できた要因は何だったのでしょうか。

斎藤道三や斎藤義龍の時代には考えられなかったのでありますが……要は、相手が無能な三代目・斎藤龍興だったからです。

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信長は、龍興に不満を持っていた美濃三人衆(=西美濃三人衆)を調略しました。

これこそが美濃攻略最大の要因です。

お陰で、木曽川の渡河を誰に阻まれることなく成功し、西美濃の援軍が来ない平野を一直線に北上、稲葉山城(当時)を一気に攻略できたのです。

先程申しましたように、岐阜城を守る側から見ると、山頂の本丸で敵の侵攻情報をいち早くキャッチして、濃尾平野に大軍勢を展開することが防御のキモであります。

もちろん言うは易く行うは難し。

この防御システムをつつがなく発揮するためには、岐阜城でキャッチした敵の情報を素早く分析する頭の良さが必要であり、濃尾平野に素早く軍を展開できる日頃の訓練が必須であり、そして敵家臣の調略や城主そのものの求心力など、この城の防御は主のスペックに大きく依存しているのでもあります。

以上を踏まえて、織田秀信は優秀だったか否かを見て……おっと間違えた。

徳川の東軍連合
vs
織田秀信

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