その道三と争い、悲劇的な決別をした息子の義龍。
二人とも、いかにも戦国大名らしい生涯を送った人物です。
では、道三の孫であり義龍の子である斎藤龍興(たつおき)は?
実は龍興も、祖父・父親ほどに名は知られておらず、彼らが辿ったルートとは別の生き方ながら、戦国大名「らしい」人生を送っています。
天正元年(1573年)8月14日が命日となる斎藤龍興の生涯を追ってみましょう。
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斎藤龍興は義龍の息子にして忠勝らと同期
龍興は、天文十七年(1548年)に生まれたといわれています。
同年生まれの有名な戦国武将は、他に、徳川家の本多忠勝や、大友家の高橋紹運などがいますね。バリバリの世代です。
生誕当時の隣国であり、ライバルだった織田氏では、お市の方や織田長益(織田有楽斎)などが同世代(一歳違い)でした。
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龍興の母親については、まだ確定していません。
庶子だった説もありますが、斎藤義龍の正室・近江の方生まれという説も。
近江の方は浅井久政(浅井長政の父)の娘とされますが、これは少々疑問が残ります。
久政と義龍の年齢が一歳しか変わらないため、実の娘ではなく、適当な年頃と血筋の娘を養女にしたものでしょう。
なんだかテキトーに見えますが、これは悪い話ではなく、国をまたいだ政略結婚のためによく行われていました。
そんな流れから龍興の幼少期についても、よくわかっていません。まぁ、子供の頃は特に問題がなかったということでしょう。
動きがハッキリわかるのは家督を継承してからのこと。
父・義龍が急死したため、そのタイミングはイレギュラーなものでした。
中二で四方を敵に囲まれる過酷な状況
永禄四年(1561年)に家督を継いだとき、龍興は数えで14歳でした。
現代であれば中学二年生頃ですね。かくして戦国真っただ中の美濃一国を担うことになったわけです。
このくらいの歳で元服し、大人扱いされるようになるのはよくある話ですが……龍興の場合、最も頼れるアドバイザーになるはずだった父親を失って、いきなり放り出されたようなもの。
よほどしっかりした家臣と日頃から親しく、教育されていれば、良い大名になれたかもしれません。
しかし、隣国・尾張では、麒麟児・信長が美濃侵攻の準備を進めていました。
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母方の浅井氏を頼ろうにも、こちらは既に信長が妹・お市の方を嫁がせ、同盟している状態。
龍興や美濃からすれば、北近江(浅井氏)と尾張(織田氏)の二方向が敵になってしまったわけです。
唯一の望みである南近江・六角氏は、浅井氏との関係悪化で余力がなく、本格的に手を貸してもらうことは難しい状況でした。
まさに八方塞がり。
美濃の国外に助力を求めるのは、ほぼ不可能だったといえます。
半兵衛を侮辱していた飛騨守を重用
また、年齢が若いこともあってか、龍興自身の判断力もまだ危ういものでした。
例えば、彼が重用した家臣の中に斎藤飛騨守という人がいます。
日頃から言動が酷かったらしく、家中での評判もすこぶる悪い――。
「飛騨守は竹中重治(竹中半兵衛)を常日頃から侮辱していた」
とのことで、
「重治に小便をひっかけた」
なんて話まであるほどです。
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さすがに真偽は怪しいですが、おそらく周囲に
「飛騨守ならそのくらいやりそう」
と思われる人だったのでしょう。
それを龍興は咎めることができなかったのですね。
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