堺の商人出身であり、豊臣秀吉に仕えて立身出世。
関ヶ原の戦いに敗れ1600年11月6日に処刑されたキリシタン大名――それが小西行長です。
華々しいイメージに反して、実は具体的なことはよくわっておらず、謎が多い。
それが、近年の研究成果により、徐々にその実像が明らかになってきました。
なぜ商人の出身ながら、行長は出世できたのか?
最大の謎を解くカギは、実は姻戚関係にありました。
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キリシタン&商人の立場をフル活用した小西行長
行長の祖先は、父の小西立佐(小西隆佐)までしかわかりません。
立佐の際立った動きは、佐日比屋氏という貿易商との間で何重にも結んだ姻戚関係でしょう。
大坂・堺で活躍する佐日比屋氏は、九州と堺の海上輸送ルートを掌握しており、潤沢な資金を持っていました。
当時の堺は商業都市であり、外国人が行き来する国際都市でもありました。
後に小西行長は海上輸送を任されて注目を浴びますが、その発端は日比屋氏との「コネ」を利用したものだったんですね。
さらに日比屋氏と小西氏はともにキリシタンの一家でした。
もちろん、宣教師とのつながりは、信仰心から出るところもあったでしょうが、行長はキリスト教を「利用」して、キリシタンのみに独占されていた貿易ルートを確保したようです。
目の付け所がちがいます。
行長は頭の良い人物だったのでしょう。
そしてそれは商業・お金の流れ(バランス)を重要視していた豊臣秀吉にとっても魅力的に映る能力でありました。
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秀吉に気に入られぐんぐん出世
行長は人脈とノウハウとを発揮し、まずは青年期に宇喜多氏に仕えました。
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そして詳細は不明ながら、いつしか秀吉に認められるようになり、天正10年(1582年)、25歳の時に小豆島の管理を任されます。
行長自身もこのときは強運を持っていたのでしょう。
天正10年(1582年)と言えば、本能寺の変があった年。
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直後に【中国大返し】から【山崎の戦い】で明智光秀に勝利した――激動の一年だったワケです。
そんな秀吉に引っ張られるようにして3年後の1585年、行長28歳のとき。
秀吉の紀伊・四国攻めに水軍で参戦し、宣教師のルイス・フロイスに「水軍司令長官」と評されました。
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その後も兵糧輸送を任されたり、水軍として活躍することが多いだけでなく、商人という出自を買われてか、朝鮮との外交交渉にあたるなど、秀吉から次々と任務を与えられ、出世を果たします。
商人だけでなく、キリシタンとの繋がりもフル活用して確固たる地位を築いていったのです。
しかし、そんな行長に衝撃の出来事が起きてしまいます。
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