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【小西行長】
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【文禄の役】という試練
文禄元年(1592年)、秀吉の無謀な野望である【文禄の役】が始まりました。
武士のならいとして、先陣を切ることは名誉なこと。
それゆえ先陣争いが生じます。行長と対立したのは何かと因縁深い加藤清正でした。
無謀と思われた【文禄の役】は、序盤、日本側が快進撃を続けています。
そのため行長は、韓国の映像作品に出てくることがあります。
しかし、兵站が不十分な日本軍は、やがて勢いを失い、ジリジリと追い詰められてゆきました。
現地にいてその無謀を悟ったのか、行長は軍事行動と同じに明軍との和睦交渉も並行して進めいます。
文禄2年(1593年)には、平壌を守りきれず、漢城まで撤退。
圧倒的不利な態勢の中、軍を崩さぬよう耐え抜いていました。
行長は板挟みの状態に陥っていました。これ以上戦うことはできない。しかし撤退など、秀吉が納得するとは到底思えない。
明としても、朝鮮に援軍を送るメリットはありません。
想定外の戦いであるうえに、北辺の警備や倭寇対策もある。一刻も早くどうにかしたい。
日本と明は朝鮮の反発を棚上げし、小西行長と沈惟敬は共謀しつつ、とりあえず和睦するためだけの案を練り上げてゆきます。
秀吉の意向は全く反映されていません。
緒戦の勝利から自軍の優勢を信じている秀吉は、居丈高な条件を突きつけようとしています。その目を覚まさせることなど到底できなかったのでしょう。
北京へ、そして大坂へ向かい、行長はなんとか和睦を進めようとします。
その努力は、ことごとく徒労に終わります。
秀吉が納得できるわけもなく、和睦は早々に破綻し、己を欺いた行長には死罪を言い渡すほどでした。
周囲のとりなしにより行長は一命を取りとめながら、次なる派兵【慶長の役】でもまた駆り出されます。
そしてこの不毛な戦いは、慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなるまで続けられるのでした。
※以下は文禄・慶長の役の関連記事となります
秀吉晩年の愚行「文禄・慶長の役」なぜ明と朝鮮を相手に無謀な戦へ突き進んだのか
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盟友・三成の呼びかけに応じ
秀吉の死により、後始末をつけさせられることになったのが小西行長です。
家康からの接触もありましたが、行長としては三成や直家との関係を重視せざるを得ません。
しかし加藤清正らの怒りもあり、豊臣政権内での揉め事は容易に収まらず、ついには三成が佐和山城に蟄居の処分がくだされます。
行長は宇土城に戻る途中、わざわざ立ち寄っています。
このとき三成から何も告げられませんでしたが、その後、京都に滞在していた行長に書状が届きました。
「共に家康を倒そう」
行長は、三成の思いを無碍にはできません。イエズス会の宣教師にもこのことを打ち明けると、彼らは困惑しつつ、家康は強大だとして反対しました。
それでも行長は引き返しません。
そして慶長5年(1600年)――上杉討伐に向かった家康の背後を突き、三成は挙兵。
行長は西軍として盟友のもとへ馳せ参じました。
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