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【小西行長】
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宇土城に守備兵を置きながら関ヶ原へ
犬猿の仲である加藤清正が熊本の本拠地・宇土城の近くにいる以上、小西軍本隊を関ヶ原に向かわせるには限度があります。
実際、その懸念は当たり、城主留守の宇土城は東軍についた加藤勢の猛攻にさらされました。
落城こそ免れたものの、ある程度の守備隊を残していたからこその話です。
関ヶ原に向かった小西行長の手勢は、そこまで大きくありませんでした。
総勢7,000、そのうち手勢といえるものは3,000、残りの4,000は言わば寄せ集めです。
それでも行長の士気は高く、大垣城に立て籠もって東軍を迎え撃つべきだ!と主張しました。
が、残念ながらその策は受け入れられず、両軍は関ヶ原で激突。
結果はご存知の通り、小早川秀秋らの東軍参戦もあってこの大会戦はわずか一日で西軍が敗れてしまうのでした。
キリシタンとして首を打たれる
敗戦後、小西行長は伊吹山に逃げ込みました。
周囲は落武者狩りの手が延び、絶体絶命の状況です。
行長はここで林蔵主という僧に出会います。
「我こそは小西摂津守よ。捕らえて褒美を貰えばよい」
林蔵主は驚きます。
「腹を召されてはいかがか」
「いや、キリシタンである以上、それはできぬ」
自死は選択できない以上、結局捕えられるしかなく、その後、行長は、石田三成、安国寺恵瓊と共に大坂と京を引きまわされ、六条河原で斬首とされました。
死に臨み、彼はイエス・キリストと聖母マリアの像をかざし、首を打たれています。
死後、修道院へ遺骸が運び込まれると、衣服から遺書が出てきました。
そこには煉獄で受ける苦しみを先んじて受けたという回顧と、残された妻子にデウスを信じよと説く文言が書かれていたと伝わります。
こうして小西家は終焉を迎えました。
行長の娘であるマリアは、宗義智に嫁いでいました。
義父に深い信頼を寄せていた義智は、関ヶ原でも西軍につき、伏見城攻撃にも参加。
にも関わらず、家康は宗義智の申し出を聞き入れ、取り潰しはしませんでした。
宗氏は対馬を領有しています。
日本と朝鮮の間にある対馬は、両国を結ぶ役割があり、石高は一万石以下ながら松前藩と並び大名とされた例外的な立ち位置にあります。
関ヶ原の後、義智はマリアと離縁。
彼女は慶長10年(1605年)に長崎で没しています。
夫妻の仲は終わりましたが、日本と朝鮮を結ぶ宗氏の役割は続いてゆくのでした。
アウグスティヌスの受難
洗礼名アウグスティヌスを持つ彼の人生は、彼自身が振り返るように、煉獄のような苦しみに満ちていたと思えます。
商人の子でありながら、登る太陽のような秀吉に取り立てられ、豊臣姓まで与えられた。宇土城主にもなった。
しかし、この光と対になる影があまりに暗い。
朝鮮で無謀な戦いを強いられ、嘘をついてまで和睦交渉を進めなければならず、加藤清正からは商人の子だとして蔑まれる。
拷問のような苦悩にさらされた彼にとって、斬首は天国へ向かう道へと思えたのかもしれません。
過酷だった小西行長の生涯は、彼と信仰を同じくする遠藤周作によって描かれています。
痛快爽快な戦国武将の物語ではなく、信仰心と板挟みになる苦悩がそこにはあります。
水軍を率いて先陣を切ったため、前述のように韓国の映像作品でも取り上げられる機会が多い。
洗礼名アウグスティヌスを持つ小西行長は、実に興味深い戦国武将と思えるのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
別冊歴史読本『野望!武将たちの関ヶ原』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
他