スマートフォンやPCが全盛の時代、廃れそうで決してそうならないものがあります。
文房具です。
帳簿をつけるのは専用のソフトやエクセルがありますし、文章を書くのだってワードで十分。
もはや鉛筆やボールペンなど出番はなさそうで決して無くならず、中にはこだわりの万年筆や手帳を用いている方も少なくないでしょう。
こうした傾向は大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の舞台だった、平安末期から鎌倉時代にかけても同様で、中世の文房具にも非常に重要な意味があります。
紙や硯、そして木簡など。
用いる人の経済・文化事情も垣間見え、劇中の言葉やナレーションでは説明しきれない背景が実は表現されたりするのです。
特に興味深かったのが『鎌倉殿の13人』で義時が手にしていた「木簡」。
地味なシーンのため、あまり注目されることはなかったですが、これが文化生活基準なども垣間見えてくるから、放置しておくのももったいない。
木簡を中心に当時を振り返ってみましょう。

絵・小久ヒロ
文房具 中国大陸より来たる
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で「木簡」が印象的に取り上げられたのは第3回放送でした。
山で狩りをして、北条館に戻ってきた坂東武者たち。
「獲物を肴にして、パーッと飲もうゼ!」
三浦義村にそう声をかけられた北条義時が誘いをアッサリ断り、
「木簡を見る」
と言い出したのです。
義村は、義時のことを「コイツ、隠キャだな」とでも言いたげに皮肉っていましたが、義時はそこに記された米の数字をもとに周囲の豪族の兵数を割り出したんですね。
木簡は、東アジアにおいて用いられた木製の板で、竹を用いたものは「竹簡」と呼ばれ、『三国志』ものの華流ドラマでもおなじみの存在です。
そこでまずは、日本にとっても非常に重要だった、中国の事情から振り返ってみましょう。
儒教の経典である四書五経にせよ、歴史書の『史記』にせよ、もともとは木簡に記され、当時の本棚は“木製のロール”が積み重ねられていました。
木では厚みがあるため、「帛」(はく)と呼ばれる“絹の布”に文字を記すこともありました。
そして、その木簡の便利さと帛の薄さを兼ね備えた“大発明”が、前漢時代から見られるようになります。
「紙」です。
ぼちぼち普及していた紙の製法を、後漢の蔡倫(さいりん)が確立し、世の中に普及し始め、情報革命が起動。
『三国志』でおなじみの後漢末期から魏晋南北朝は、思想と情報流通の底上げがなされた時代であり、その状況を表した言葉として、こんな言葉があります。
洛陽の紙価(しか)貴(たか)らしむ
西晋時代、左思の「三都賦」(さんとのふ)の評判があまりによいため、洛陽では紙が売れて高騰したというもので、ベストセラーを示す言葉としても定着していますが、それのみならず当時の状況もわかります。
木簡や竹簡よりも、紙が普及しやすかったこと。
当時の文学は書写するしかなかったこと。
現代人からすれば、いちいち肉筆で書き写すなんて大変なことだと思えますが、それは私たちが印刷を知っているから。
紙が広まるこの時代は、書道が飛躍した時代でもありました。
字を上手に書く人物はこれ以前にもいましたが、紙に書くとなると書そのものが変貌します。
例えば紙に字を記す初の大書道家として、東晋の王羲之は現在に至るまで敬愛されています。
では日本における紙や木簡はいつからか?
魏晋南北朝のあと、統一された中国大陸の隋――そこへ日本からの使者が訪れました。
この遣隋使と、続く遣唐使により、中国大陸から様々な文物がもたらされます。
紙、筆、文字、書物、そして木簡……こうした文房具を駆使して、日本に住む人々も文書を記録してゆくようになったのです。

飛鳥~奈良時代の木簡/photo by さぱしあ wikipediaより引用
中国では、まず木簡があり、次に紙。
それが日本では同時に普及し始めたため、用途によって使い分けがなされました。
渡来したのは遣隋使ですから飛鳥時代の話で、それから約500年が経った『鎌倉殿の13人』の舞台へ時計の針を進めましょう。
ドラマのセットからは小道具担当者の気合を感じます。
登場人物が扱う文房具にも、彼らの経済や知識の状態が現れているのです。
その代表的な人物として、三善康信、後白河法皇、源頼朝、北条政子を見てまいりましょう。
三善康信の「風字硯」(ふうじけん)
うっかり者が歴史を動かすとされた三善康信。
以仁王が敗死すると、接触した源氏すべてを平家が討伐するという誤報を流したため、時代が一気に動き始めます。
これだけでも十分過ぎるうっかり者ですが、小道具の使い方でその性格が強調されています。
三善康信が、硯をひっくり返してしまうシーンがあります。
あの硯は「風字硯」(ふうじけん)と呼ばれるもの。底に足があるので、不安定なのです。
ひっくり返す状況にあわせ、当時あってもおかしくないものを選んだスタッフのみなさん、そんな気遣いが光る場面です。
あんな一瞬だけの場面にわざわざ風字硯を準備するなんて、非常に細かい気遣いを感じます。
硯、筆、墨、紙を指す言葉として「文房四宝」(ぶんぼうしほう)があります。
中国由来のこのブームを受け、日本の王朝文人たちもヒートアップ! きっと三善康信も、あの硯には彼なりのこだわりがあったのでしょう。
硯は文房具の中でも消耗品ではないので、そこまで裕福ではない三善康信も、奮発してよいものを手に入れたのかもしれません。
バランスが悪くともあの硯を愛用する三善康信の姿を想像すると、なんともいじらしく思えてきます。
後白河法皇の「文香」(ぶんこう)
後白河法皇の密書を前にして、北条時政と三浦義澄が「いい匂いがする」とはしゃぐ場面がありました。
こうした書状や紙に焚きしめる香を「文香」といい、当時の貴人たちが香を紙に焚きしめていたのです。
香は日本原産ではなく、宋を中継点とし輸入したもの。
白檀、桂皮、龍脳、丁子、甘松……といった種類があり、主に東南アジア、インド、中国南部原産のものでした。
そんな香料を贅沢に用いている。
その背景には、後白河法皇を悩ませる平家が、宋との交易を独占しているという事情がありました。

後白河法皇/Wikipediaより引用
後白河法皇は、平家を憎みつつ、彼らの手により入手した香を焚いている。それを「なんかいい匂いがする!」とはしゃぐ坂東の者たち。
当時の状況が凝縮された名場面とも言えます。
こうした香りは、現在ですと「線香臭い」と言われ敬遠されることもしばしばあります。
しかし想像してみてください。
今よりもっと強烈な臭いが充満していた時代です。葬儀において線香が欠かせない理由も理解できるのではないでしょうか。
鎌倉に住む坂東武者たちも、いずれ香の重要性に気づきます。
そして武士のオシャレとして定着してゆくのです。
現在も香を紙で包んだ文香は入手できます。
香りをつけた紙を手紙のみならず、名刺入れやスマートフォンケースにしのばせる使い方もあるとか。
源頼朝の「和紙」の書状
源頼朝がサラサラと和紙に書きつけた、愛する女性である八重宛の書状。
八重になんとなくあこがれていた北条義時がそれを預かり、相手に届けにゆきます。
何気ない場面のようで、なかなか残酷といえばそうですよね。
質感のよい和紙に流麗な字を書く――これぞ貴公子の風格です。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
現代で言えば、数万円もする高級レターセットに、何十万円もする高級万年筆を使っているようなシーンであり、八重や政子が「彼は何かが違う!」と惚れてしまっても全くおかしくありません。
北条政子の「お経」
夫である頼朝の挙兵後、留守を守る北条政子は伊豆山大権現に預けられ、読経の日々を送ることになりました。
あのときのお経は頼朝のものか、あるいは政子が写経したものでもおかしくはありません。

北条政子(江戸時代・菊池容斎画)/Wikipediaより引用
現在でも修行の一環として存在します。
賢い彼女のことですから、単に読むだけではなく、写経によって仏の教えを身につけていったのでしょう。
その証拠に、勤行しながら、こんな疑問を義母・りく(牧の方)の前で口にしています。
「戦で人を殺める夫がいるのに、その妻が勤行を務めてよいの?」
素晴らしい進歩で、こういう問い掛けをできるようになったのも、仏の教えを学んだからです。
殺し殺されるのが人の世であり、虫けらのような殺害を当たり前だと思っていたら、そんな疑問も湧いてこないでしょう。
政子の胸に沸いた戸惑いは、このあと鎌倉時代に興隆する鎌倉仏教の芽生えのようにも思えるのです。
ありがたい教えを写すことで、きっと政子の知性にも磨きがかかったことでしょう。
「木簡」と「木札」はビジネス用途に最適だ
都からやって来た頼朝は、和紙に筆で長文を書き付ける――そんな文明の風を坂東に吹かせました。
一方で、北条義時は木簡を管理しています。

江間小四郎義時こと北条義時/国立国会図書館蔵
高級万年筆を愛用し始めた周囲なのに、義時はボールペンを使い続けているような……些細だけれど、大きな壁にも見えるような格差がある。
しかし「木簡」にも木簡なりの使い道があります。
ここでは便宜的にまとめて「木簡」と統一して呼びますので、ご注意ください。
◆木簡は修正ができる
いったん紙に筆で何かを書いてしまったら、修正は難しい。
しかし木簡は削ることができます。
ゆえにメモ書きや公文書のような用途には適していて、実際に「削りカス」もしばしば発見されます。
◆木簡は耐久性がある
木製ですので、IDカードや荷札の役割に適しています。
こうした使い方は「付札」と呼ばれます。
義時が見ていた木簡には、縛る紐がつけられていました。
木簡同士をまとめたり、荷物につけるために、切り込みが入っていることが多いのです。
『鎌倉殿の13人』でも、木簡を紐でまとめて投げ入れる場面がありました。ああいう使い方は紙には向いていません。
ざっとまとめますと……。
・ストラップをつけたネームタグ
・ファイルでまとめた文書
それが木簡の使い方です。
義時が凝視していた木簡には、周辺農地からの米の量が書かれており、非常に実用的であるぶん、有り難みは少ないものです。
当時のゴミ捨て場からもしばしば発掘されます。
米の収穫量や領収書なんて、とっておいても仕方ないから、ゴミとして処理されてしまうからです。
ビジネスや日常生活に密着していて、現代で言えば「社内規定」「交通費の領収書」「IDカード」として当時に流通していた。
他にも、米の収穫高、法令、悩み相談、犯罪の事例、呪い、備忘録、領収書……など用途は多様。
こうして見ると、義時が「木簡を見る」と告げた時に義村がシラケ顔をするのも無理ないのがわかりますよね。
「社員同士で飲みに行こうぜ!」
そう声をかけられたのに、
「領収書チェックするから飲みに行けない。備品にどんだけ使ったか確認したいし、俺、そっちの方が性に合ってるから」
なんて言われたら、ノリが悪い隠キャだなぁ、と突っ込みたくなりませんか?

なにげないようで、当時の日常がわかる――そんな木簡は鎌倉で発掘され、鎌倉歴史文化交流館では常設展示されています。
確かに地味です。
これをじっくり見る人は相当の歴史好きでしょう。
しかし、小栗旬さんが演じた義時を思い出しながら、木簡の前で足を止める人がいれば、当時の息遣いも伝わってくるし、これほど素晴らしいことはありません。
◆鎌倉歴史文化交流館(→link)
ただし木簡は、ドラマの小道具として作る場合はかなり大変です。
木材には専用の墨汁があって、それを用いなければならない。
だからこそ小道具さんだけでなく、当時それを作っていた人々の苦労も一緒に想像してみたいですね。
義時の仁政を予見させる小道具
『麒麟がくる』と『鎌倉殿の13人』には共通点があります。
それはどちらも主人公が、後世、非難される悪事を為すという点です。
明智 光秀の主君殺しは悪い。
北条義時だって【承久の乱】で天皇をあんなに酷い目に遭わせたからには悪どい。
その史実は変えようがありません。

明智 光秀/wikipediaより引用
しかし、動機や心情描写を変えることで、視聴者の共感を得られるように導くことはできる。
本能寺の変や、多くの乱や変で粛清してきた二人にしても、本人が動機をきっちり書き残していないからこそ、フィクションゆえに穴埋めができます。
光秀の場合は、タイトルの時点で動機が誘導できました。
麒麟がくる――孔子がめざした太平の世を築くことが目標。その障害となるのであれば、主殺しの汚名をものともせずに突き進む。そんな展開にできたのです。
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では義時は?
困ったことに、当時の義時が儒教経典を初めから学んでいたとは思えません。
義時に「太平の世には麒麟がくる」を説いたところで、聡明な彼といえども、ドラマの序盤の状態であれば困惑するばかりでしょう。
そんな義時が、民衆を思いやる心情があることをドラマでは丁寧に描く必要があります。
義時の言動には、穏やかな世を望み、民衆を観察していると思われるものがよくあります。
偏見を持たず、穏やかに生きていきたいと願っている優しさが垣間見えます。
民衆の生活を愛する心がけは、木簡を確認し、米の収穫を把握し、飢饉に備える心がけによってあらわになります。
仲間同士で酒を飲んで騒ぐより、地味でも民の暮らしを考えていたい――。
義時の根っこには優しさがあるのです。
教育を受けた光秀ならば『論語』を引用しつつその意見を表明できますが、義時にはそれができない。
ゆえに細やかな描写で、その優しさと慈愛を見せてゆくしかありません。
冷徹であればこそ、執権として権力を握り、【承久の乱】までやらかしたとされてきた北条義時。
それが実は愛するものや民衆を守るため、巻き込まれてそうなると描くとすれば、これはドラマならではの挑戦といえます。
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興味深いことに、これは何も妄想でもなくて、偏見を取り払ってみれば義時はそこまで悪人ではないのでは?
鎌倉幕府のやらかしたことは悪いけれども、民を仁政で治めていたことは評価できるのでは?
昔からそう言われてはいます。
平清盛率いる平家にはそれがなかった。だからこそああも反発された。
それを受け、そのあとの鎌倉幕府は民の声を聞くようにし、平氏よりも長い政権を保てた。
こう誘導すれば、義時の奮闘は理解できるようになります。
北条義時は確かに己の拳を血に浸すようなことはするけれども、民を愛する気持ちはあったのだと。
日本の歴史が求める必要悪として北条義時を描くのであれば、『鎌倉殿の13人』には意義があります。
だからこそ、あの木簡を調べる義時の横顔を忘れないでいたいと思うのです。
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【参考文献】
水藤真『木簡・木札が語る中世』(→amazon)
関幸彦『相模武士団』(→amazon)
他






