治承四年(1180年)11月26日は、平清盛が都を福原京から京に戻した日です。
いわゆる”福原遷都”が頓挫した日ということになり、平家の凋落が始まった日といえるかもしれません。
本日はこの”福原”という土地の数奇な運命を見ていきましょう。
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斬新だった経済拠点としての都
福原は、場所としては現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部あたりをさします。
地図で見るとこんな感じ↓ですね。
もともと平氏は日宋貿易で財を成しており、現在の神戸港を拠点としていました。
港を見下ろす位置に、新しい都が計画されたのが福原新都です。
「経済の拠点を都にしよう」というのは、結構斬新な考えだったかもしれませんね。
当時の都は縁起の良い場所を選んで作るものであり、実は、新都の構想は別の場所でも立てられていました。
この治承四年の夏に安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇が摂津国の福原へ行幸したとき、行宮(あんぐう・皇族の仮の住まい)が作られたのです。
清盛はこれを機に、行宮に隣接する和田(輪田とも)という場所を都にしようと計画したが、平地が少なすぎて頓挫していました。なんじゃそりゃ。
その後もアチコチに都を作ろうと計画したものの立ち消えとなり、最後に残った候補が福原だったのです。
しかし、治天の君(実権のある天皇・上皇・法皇のこと)である高倉上皇が京を出たがりませんでした。
鎌倉幕府に接収され歴史の表舞台から消える
そこで清盛は”皇居に似せた私邸”を福原に作り、役所も造る計画を立てて実行に移します。
先に建物を作っておいて、後はうまく丸め込んで引っ越しをさせようというわけですね。
高倉上皇も感づいていたようで、この”私邸”には行幸したものの、すぐに京へ戻っています。
清盛としてはもう少しゴネたかったところでしょうが、源氏挙兵の報が入ったため、それ以上ゴリ押しできなかったようです。
間もなくして清盛が亡くなり、平家が滅ぼされると、福原の荘園や建物は鎌倉幕府に接収されました。
木曽義仲によって建物は焼き払われたともいわれています。
そしてその後しばらく福原の名は歴史の表舞台からは去るのですが……思わぬところで再び脚光を浴びることになります。
幕末に神戸が開港されたため、神戸にほど近いこの地も注目されたのです。
外国人居留地の設置に伴い、劇場や遊郭を造る場所が必要と考えられ、政府へ許可を求める者が次々に現れました。
こうして福原は明治初期に妓楼の町として栄えることになります。
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