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【ドビュッシー】
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リストの前で演奏も
留学期間中には、74歳になった「ピアノの魔術師」ことフランツ・リストの前で演奏するという凄まじい出来事もありました。
返礼として、リストもその演奏技術を披露してくれたそうです。
なんて豪華な空間なんでしょうか。
ドビュッシーはローマ賞における留学の最低期間である2年がすぎると、慌ただしく帰国。
やはりお上品で堅実な仕事はせず、
「自分の個性を買ってくれるようなパトロンを見つけよう」
と思ったようで、医師の私的な晩餐会やカフェなどに出入りするようになります。
当時のカフェは社交場としての役割もあり、芸術家が集う場所でもありました。ということは、そういった人材を求めてやってくる富裕層もいるわけです。
ドビュッシーはそうした人々との交流を深めながら、ワーグナーへ傾倒していきました。
この頃もあまり収入がなかったドビュッシーはワーグナーを聞きにいけないことを残念がっていましたが、知人の銀行化エティエンヌ・デュパンが援助してくれ、バイロイトで念願かなっています。
しかし、実際にワーグナーを聞いたことにより、やはり自分とは違う方向性であることを発見することにもなりました。
当時ドビュッシーは詩に歌曲をつけるというやり方を好んでいました。ワーグナーのようにオペラにするのではなく、詩の雰囲気に合わせて曲を書くというものです。
この時期にできたのが、これまた有名な『ベルガマスク組曲』です。
『月の光』が含まれている組曲、といったほうがわかりやすいでしょうか。
パリ万博でガムラン音楽に触れる
ドビュッシーに決定的な衝撃を与えたのが、1889年のパリ万博でした。
フランス革命100周年と重なったこの万博は、例年にも増して盛大に開催。
エッフェル塔が建設されたのもこの頃です。
欧米だけでなく、カンボジアや日本などのアジア圏、モロッコなどアフリカ圏の展示もあり、エキゾチックな回だったとされます。
ドビュッシーももちろん見物に出かけており、ベトナムの劇団やジャワ(インドネシア)のガムラン音楽に大きな衝撃を受けました。
おそらくロシア音楽に初めて触れた頃も「フランス音楽とは違う」と思っていたでしょうが、さらに遠く離れたアジアの音楽に、ドビュッシーはなぜか惹かれました。
「学校であんなにも重視されていた和声や法則が使われていなくても、素晴らしい音楽がある」
ということを知って、自分の個性が間違いではないことを確信できたのでしょう。
決意表明のためか、名前も少し変えています。
といっても別名にしたのではなく、それまで「アシル=クロード・ドビュッシー」という順だったのを、「クロード=アシル・ドビュッシー」にしたのです。
家族の間では「アシル」をもじって「シロ」と呼ばれていたらしいので、
「もう子供の”シロ”じゃない」という思いがあったのかもしれません。
こうして自分の感覚を信じたドビュッシーは様々な曲を生み出していくのですが、その中でも特に傑作といえるのが管弦楽『牧神の午後への前奏曲』です。
知人のマラルメによる詩『半獣神の午後』から着想を受けて書かれたもので、そもそもこの詩が
「昼寝をしていた半獣神が、まどろみの中で官能的な思いに浸る」という、一歩間違えればイヤラシイ感じになってしまうものでした。
後年に『牧神の午後への前奏曲』はロシア人バレエダンサーのヴァーツラフ・ニジンスキーがバレエ化しているのですが、あまりにもセクシャルな振り付けを入れたため大問題になったことがあります。
練習の時点で誰か止めてやれよ……というのは野暮ですかね。
さらにそれを元にして、同じくロシアの宇宙じ……もとい努力と天才のフィギュアスケーターであるエフゲニー・プルシェンコが振り付けに取り入れたことがあります。
幸い?ドビュッシーはこの詩を音だけで表現したため、批判されずにすみました。
それどころか1894年12月の初演から好評を博し、ドビュッシーはようやく実家を出て暮らしていけるだけの収入を手にします。
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