ルイ17世

ルイ17世/wikipediaより引用

フランス

ルイ17世~マリー・アントワネット息子の末路~わずか10歳で迎えた凄絶な最後とは

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連戦連敗の鬱屈が王室へ向けられ

1792年4月になると、フランスは革命の波及を恐れたオーストリアとプロイセンに宣戦布告。

しかし訓練を受けていないフランス軍は連戦連敗となり、その鬱屈した気分は王室に向けられました。

「王族が敵軍と密通して、フランス軍を窮地に追いやっているに違いない」

そう捉えられ、国王一家が戻ってきていたテュイルリー宮殿を襲撃するまでになるのです。

これに関しては国王一家のせいではなく、亡命していた王弟アルトワ伯やプロヴァンス伯などの動きが強かったのですが……やはりヴァレンヌ事件の悪印象が強すぎました。

1792年8月10日、民衆がテュイルリー宮殿を襲撃し、タンプル塔へ国王一家を収監しました。

【8月10日事件】【8月10日革命】と呼ばれている出来事です。

王権は停止され、国王のそばに残っていた貴族たちも引き離されていきました。

しかしタンプル塔では、家族揃って過ごすことができたのでまだマシなほうではありました。

ルイ17世は父や父の妹(叔母)であるエリザベートから語学などを教わったり、遊んだりと、遠くへ行けないこと以外はむしろ温かい空気だったようです。

後に、マリー・アントワネットがエリザベートに書いた遺言書の中で、

「息子があなたに迷惑をかけてごめんなさい。あの年頃の男の子はそういうものなの」

と書いているのですが、それはおそらくこのタンプル塔にいた時期のことかと思われます。

囚われの身になる前までは、17世とエリザベートが身近に接することもそう多くはなかったでしょうし。

この段階ではまだ国王一家に同情してくれる者もおり、ペットにと犬をもらったこともあったとか。

 

ルイ16世の遺書には「復讐を考えてはいけない」

直後の8月半ば、オーストリア・プロイセン連合軍がフランス領内へ侵入。

9月21日に国民議会は共和制となることと王政の廃止を宣言します。

続いて「ルイ16世の処遇をどうするべきか?」といった議論と投票が行われました。

この投票は今日イメージされるような「紙に書いて投票する」というものではなく、議員一人ひとりが賛成・反対とともにその理由を述べるというスタイルです。

そこで70票ほどの差をつけられ、ルイ16世の処刑が決定。

16世は既に覚悟を決めており、処刑の前のクリスマスには遺書を書いていたといいます。

その中で、17世に対し「復讐を考えてはいけない」と諭していたとか。

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無実の罪で処刑されたルイ16世なぜ平和を願った慈悲王は誤解された?

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革命政府は既に王政を廃止していますので、16世の処刑後も17世は国王としては扱われませんでした。

とはいえ王族たちにとっては王政廃止も納得できませんから、亡命済みだった父方の叔父・プロヴァンス伯ルイはこの時点で

「王位は16世の子である17世のものであり、私が摂政を務める」

と宣言しています。

その割に救出しようとした気配はありませんけれども……。

ちなみにこの人は国王一家がヴァレンヌ事件で逃亡に失敗したのとほぼ同時に、別ルートで亡命を成功させています。

もしも彼が17世を預かっていたら、運命は全く違ったものになったでしょうし、この発言にもっと信憑性が出たことでしょう。

反対に、17世が騒ぎ立てて逃亡失敗、というケースもありえますが。

 

市民としての教育を受け 凄まじい虐待が続く

父・ルイ16世の処刑は1793年1月に決まりました。

ルイ17世の処遇が決定的に悪くなったのは、それから半年ほど経った1793年7月からのこと。

まず7月3日に母や姉たちから引き離され、タンプル塔内の別室に一人で収容されることになります。

最初のうちは泣いていたものの、革命派に気に入られようとして革命歌を歌ったり、母や叔母について「あのあばずれども」といった暴言を吐くようになっていたとか。

かの名作「ベルサイユのばら」では後者の場面が描かれていました。実際には作中ほど元気な感じではなく、17世は徐々に体調を崩していきます。

同じ頃、1793年8月2日には母マリー・アントワネットがコンシェルジュリー牢獄へ単独で移され、同年10月12日からは彼女の裁判が始まっていました。

17世本人はおそらく知らなかったでしょうが、マリーの裁判では彼女が息子に性的な虐待を行った疑いまでかけられています。

数々の散財については罪を認めたマリーでしたが、これには毅然と反論。

あまりにも荒唐無稽だったことから、疑いをかけた人に傍聴人たちが怒ったほどです。

性的なことで人を貶めようとするのは常套手段ですけれども、言い出した方の品性が疑われるだけですよね。

むしろ、性的虐待をしたのはルイ17世を収監していた側の方でした。

本来は世話をするはずの人が、番兵たちですら嫌がるほどの暴力を加えていたという話もあります。現代であれば確実に刑事事件ですね。

世話人が変わった後も待遇が改まることはなく、17世は鎧戸と鉄格子のはまった暗い部屋に閉じ込められていたそうです。

わざわざそのために改装させたというのですから、気味が悪いほどの徹底ぶりであります。

ルイ17世は食事も衣服も満足に与えられず、トイレにも行けず、不潔な部屋でかろうじて息を保っているような状態だったといいます。

まだ年齢一ケタの、しかも肉親から離れ離れにされた少年にとって、人格が変わるほどの衝撃を受けたことは間違いありません。

いくら王政が憎かったからといっても、まだ一人で出歩くこともできないような少年への扱いとしてはひどすぎます。

彼をこのように虐げて、民衆が何を得られるというのでしょうか。その疑問を持たない人しかいなかった……とは思いたくないところです。

無理矢理この扱いの理由を考えるとすれば、当時の世話人が「17世は16世の子ではなく、フェルセンの子」という噂を信じていた可能性があるでしょうか。

フェルセンは1783年にアメリカ独立戦争からフランスに戻ったものの、その後1784年に母国スウェーデンへ帰っており、そこから1788年秋までは母国の軍人として動いています。

ルイ17世が生まれたのは前述の通り1785年3月27日ですので、通常の発育であればマリーが身ごもったのは1784年の夏頃。

いよいよ王家の財政逼迫が隠しきれなくなり、あーだこーだと論戦が繰り広げられ始めた頃です。

この多忙極まる時期にマリーとフェルセンが首尾よくいったというよりは、マリーとルイ16世との間に夫婦生活があったと考えるほうが自然でしょう。

あるいは、そういった事実や理屈はどうでもよく「マリーを強く憎んでいた人」が世話人になったので、マリーの代わりに目の前にいる17世で憂さを晴らそうとしていた……というのもありえそうです。

いずれにせよ17世本人には何の責任もないので、酷いとしか言いようがないことは変わりません。

ちなみに17世の姉マリー・テレーズはそこまで酷い扱いを受けていなかったようです。彼女の父親については疑念が持たれていなかったのか、女性だったからなのか……。

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