存続の危機が2度あったと指摘する歴史学者もいます。
最初は織田信長の時、二度目は第二次世界大戦直後です。
後者については、異論はないでしょう。敗戦国だった日本の天皇制が存続できるかどうかは、勝者であるアメリカら連合国の考え次第でした。
では、信長の時というのはどういうことでしょう?
そもそも、ときの天皇は誰だったのか――。
今回取り上げるのは、天皇の歴史では重要でありながら、あまり知られていない第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)と、信長の皇位簒奪の噂に着目したいと思います。
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戦国時代でとにかくお金がなかった皇室
この正親町天皇が即位した時代の皇室は「貧乏」。
とにかくお金がありませんでした。

正親町天皇/wikipediaより引用
世の中は下克上の戦国時代です。
皇室は、戦国武将からは見放されており、ひどい有様でした。
たとえば、正親町天皇の即位式はお金がなくて中止になっており、4年目の永禄3年(1560年)になってようやく実行できたほどです。
それも他人の助けがあったから。
資金を援助してくれたのは、中国地方の雄・毛利元就父子でした。

毛利元就/wikipediaより引用
それから8年後の永禄11年(1568年)――。
「織田信長が京にやってくる!」
入京した信長は即座に警護を命じた
京都にとっては驚愕のニュースが飛び込んできました。
織田家に武力で攻められてしまえばひとたまりもない。京中は大騒動になります。
はたして、信長は救世主か、はたまた迫害者なのでしょうか。
京の人々は固唾をのんで信長を迎えました。
信長は将軍・足利義昭とともに入京すると、京の警護を即座に命じます。彼は皇室の味方でした。

織田信長/wikipediaより引用
正親町天皇はホッと胸を撫で下ろしたことでしょう。
信長が上洛し、天皇を護ったのには計算がありました。朝廷の権威を利用して、大義名分を手に入れることができるからです。
たとえば、朝倉(ひいては浅井)との戦いでは、戦争が勅命であると主張。
建前にせよ、世論を味方につけることができます。働く兵士の士気にもかかわるでしょう。
皇室に利用価値がまだまだあるとふんだ信長は、全面的に皇室をバックアップすることにしたのです。
一方、正親町天皇にとっても、信長の援助を受けることは悪い話ではありません。
信長が京に入ってきて以来、戦乱は終息を迎えつつあり、国内は平定されつつあります。結果、皇居は修理され、さまざまな儀式は復活し、公家社会は安定したからです。
こうして持ちつ持たれつの良い関係が続いておりましたが、冒頭では信長が天皇になろうとしたとする学説のあることを紹介しました。
一体どうしてそんな話になってしまったのか。
主な根拠は4つ 検証してみましょう
「皇位を狙っていた」とされる根拠はいくつかあります。
根拠① 信長は征夷大将軍に任命されることを望んだが、正親町天皇がそれを拒絶した。
根拠② 信長は任官を拒んだ正親町を譲位させようと画策したが正親町天皇が拒んだ。
根拠③ 天下の名香「蘭奢待」(らんじゃたい)の切り取りを正親町に強引に認めさせた。
根拠④ 京都で行われた馬揃いで、正親町を威圧し続けた。
などなど。
しかし、これらの根拠はどれも「あやしい」ものばかりです。
一つずつ検証してみましょう。
最初は「征夷大将軍」の任命に関わる説です。
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